Archive for June, 2009

はっちゃんのように著名な飼い猫をはじめ、多くの飼い主が愛猫を撮影しているはずである。

私もこのようにネコの写真を撮っているが、さほどの頻度ではない。また、この2枚いずれも携帯電話に内蔵されたカメラによるものである。

Alan in front of Matrix screen 2006

Alan a baby cat 2006

あまり写真を撮らない理由のひとつは、部屋が散らかっていて、絵にならないということがある。これは身から出た錆としかいえないが、撮影するからにはヒトから見て美しいものにしたいと考えるのは自然なことである。

それから、こちらが本題。一眼レフでも銀塩写真をあまり撮らなくなり、デジタル写真を撮影することが普通になってきたこと、これにともなってニコンのDXフォーマットへの不満がある。理由は後で述べるが、結論を先にいえば、ニコンはデジタル一眼レフを開発するにあたってFマウントを採用するのであれば、はじめからFXフォーマットを採用すべきだった。35ミリ版相当の大きさをもつ撮像素子が作れないとしても、レンズの焦点距離150%換算というようなことは擬似的な方法を用いてでも避けるべきだった。

現在でも『猫生活』や『猫びより』など、いくつものネコ雑誌が出版されているが、1980年頃までのネコ雑誌における読者投稿写真には、撮影に用いられたカメラやレンズなどの情報が添えられていた(『月刊キャッツ』300号, 1998年11月, 65-68頁)。『月刊キャッツ』改題前の『キャットライフ』1878年11月号に掲載された「おじゃまします」という写真には「マイクロニッコール55mm F5.6 ネオパンSS ストロボ使用」という記述がある。このMicro-Nikkor 55mmは Ai方式ではないF3.5かもしれない(ニッコール千夜一夜物語「マイクロニッコールの歴史と真実、そして伝承前編 後編 参照)。

しかし、接写ができて55mmという焦点距離のレンズはネコ写真を撮影するうえで非常に使いやすいものなのである。オートフォーカスのAi AF Micro-Nikkor 60mm F2.8Dというレンズも現在発売されており、私もオートフォーカスの銀塩カメラ用として使っている。しかし、これはDXフォーマットのデジタル一眼レフに取り付けても、焦点距離が150%換算されて90mm相当となり、まるで使えない、AF-S DX Zoom-Nikkor ED 18-70mm F3.5-4.5G (IF)でそこそこの撮影はできるが、銀塩ほどの面白さは感じられない。だいいち、銀塩用に何本かのDタイプニッコールレンズはすでに持っている。だからといってD3xをポンと買うのは、プロならともかく浪費というべきであろう。せいぜいD700が手の届く限界である。

結論はすでに述べたが、D700にしても価格としては銀塩最高級機のF6に近い。写真を楽しくするために、ニコンはFXフォーマットのニコマートDシリーズを発売すべきである。ニコマートという名前にこだわるわけではないが、D二桁程度の価格帯で量産しなければあまり意味がない(「ニコマート」の商標は番号3173753号と3231491号でニコンが今でも登録しているので、活用してもよかろう)。DXフォーマットは廃止か、細々と継続する程度でかまわない。

ネコ写真にとどまらない問題をもうひとつ指摘しておこう。コピースタンドにマイクロニッコール装着のDXフォーマットのニコンを取り付けた場合、大きな資料になるとカメラをてっぺんまで上昇させても複写ができないのである。低価格のニコマートFTシリーズやニコンFMシリーズではこのような問題はなかった。最高級機と同じニッコールレンズが使えるのがニコマートであり、廉価版のニコンだったはずである。

岩波映画の羽仁進監督の「不良少年」(1961年, 新東宝配給, 90分白黒作品)は、著名であるにもかかわらず目にする機会は少ない。私は、深夜に放送されたものなのか、ケーブルテレビによる放送なのかよく憶えていないが、テレビの前で釘づけになって観たことがある。ビデオ録画もしたはずだが、テープはどこにあるのか自分でも把握していない。そのうち出てくると思う。

いずれにしても、はじめからしまいまで観たのである。映像では冒頭に、この映画がフィクションであって内容については監督に責任があることと、撮影に協力した少年に対する謝意が文字で示される。少年が逮捕され、少年院で生活する様子が描かれている。結末を明かしたとたんにつまらなくなるようなことはないが、プロセスを通じて緊張させられる作品である。

実を言えば、私は岩波映画にあまりなじみがない。このエントリを書く際にちょっと調べて田原総一朗が岩波映画出身だと初めて知ったほどである。

それはさておき、この映画の音楽を武満徹が担当していることはおそらく重要であろう。劇中で用いられている歌は有名な「〇と△の歌」である。今日では小室等がギターを弾きながら歌い、また合唱でもよく歌われている。映画の中でこの歌はごく控えめに、少年院の静かなグラウンドを映したシーンにおいて、うっかりすれば聞き逃してしまいそうなアカペラで歌われている。小室等の歌い方もそれによく似ているように思う。

合唱では、ややメリハリの利いた歌い方がなされるようである。たとえば2008年の新居浜混声合唱団定期演奏会のように。

ところで武満徹とは誰かと訊ねられるかもしれないが、国際的に著名な作曲家である。フィクションながら現実の少年に取材したドキュメンタリー風の「不良少年」に対して、まったく空想的な世界を描いた安部公房原作、勅使河原宏監督1964年の作品「砂の女」(カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞)の音楽も武満徹が担当した(主演の岸田今日子は、羽仁進と同様に自由学園高等科卒業生である)。

武満徹は65歳の癌による死をもって、大江健三郎にさらなる小説執筆の決意をうながすことになった。

さて、どのように話を羽仁進に戻すか。いや、ここに述べてきたとおりであるから、本当は話を戻すことにはあまり意味がないとも思う。ただ、武満徹の音楽が大きな影響力を持っていたことには言及しておかないわけにはいかないと思われるのである。ただ、武満徹の作品の歌詞の最後の部分だけを示しておきたい。バラライカは三角だぜ!

工学部の学生だったころ、第三外国語としてロシア語を履修した。第二外国語はドイツ語で、初級程度は必修なのだが、第三外国語は完全な選択科目だった。

履修の動機は、図書館の書庫にあったキリル文字の雑誌が置かれた場所に立ったとき、文字さえ読むことができず、目の前にある膨大な情報にアクセスできないもどかしさを感じたからだった。

ロシア語を履修する学生は少なく、授業中に怠けることは不可能であった。担当は北九大の戸辺又方(とべ ゆうほう)教授で、教科書は先生自身による『1年生のロシア語 = Мы читаем и говорим по-русски』(白水社, 2000年)であった。履修した当時1年生ではなかったのだが、ロシア語を学ぶものとしては1年生である。出版年からみて私はこの教科書を使ってロシア語を学んだ最初の学生のひとりだと思われる。調べてみると、現在いくつもの大学のシラバスに教科書として指定されているようである。

最初の授業で印象に残っている言葉がある。「ソ連語という言語はありません」というものだった。当時はまだソビエト連邦が存在していたのだが、ソ連における公用語としてのロシア語であって、「ソ連語」という言語が存在するわけではないということである。たしかにそのとおりである。

文字を覚えるのに時間はかからなかった。ギリシャ文字との類似点が多いからである。ギリシャ語を習得していたわけではないが、数式を使うのにギリシャ文字を使うことが多いからである。大学院入試でドイツ語の問題に白紙回答をしたという益川敏英教授も、さすがに数式の中でギリシャ文字は使うであろう。

名詞の性や格変化はドイツ語である程度経験したことに改めて取り組むといった印象があった。苦労はしたが、むしろ楽しかった。

さて、習いたてのロシア語に関する知識を何に使ったか。最初はロシア語からの翻訳を楽に読めるようになったということである。トルストイやドストエフスキーのようなロシアの文豪の作品をかじろうとして、人名に翻弄されて挫折した高校生や大学生は多いのではないだろうか。ロシアではひとりの人物にファーストネーム、愛称、敬称とさまざまな呼び名があって場面により使い分けられるし、同じ家族でも男性と女性で語尾が異なる(固有名詞にも性がある)のだが、それがわかっていないとストーリーについていけない。

ロシア語をひととおり学んで最初に読んだのが、ワロンツォーワ著, 三橋重男訳『コワレフスカヤの生涯-孤独な愛に生きる女流数学者』(東京図書, 1975年)だった。ちょうど科学史や技術史に強い関心を抱くようになっていたころのことだった。

そしてソ連は崩壊した。勉強のためにモスクワで発行されている週刊誌を年間購読していたのだが、発行が一時的に止まって届かなくなった。購読料は前払いだったので少しやきもきしたが、やがて発行は再開された。雑誌そのものは廃棄してしまったが、ソ連崩壊を境に紙質が劣悪なものになったような記憶がある。

Солярис数年たって、アメリカからVHSのビデオをインターネットで購入するようになった。英語字幕のついたタルコフスキー監督の映画を何本も買い込んだ。そんなときに大江健三郎の小説『静かな生活』(講談社, 1990年)とめぐりあった。この中にタルコフスキーの「ストーカー (Сталкер)」をとりあげた章がある(念のために書いておくと、邦題は原作をそのままカタカナにした「ストーカー」であり、映画の中ではロシア語的に「スタルケル」と呼ばれているが、他人につきまとうストーカーとはまったく関係がない)。大江健三郎自身がモデルになっていると思われる、主人公の父親が、キリル文字で「Сталкер」と書いてみせる描写がある。大江健三郎はドストエフスキーを読むためにロシア語を学んだのだろうかと思った。この小説は伊丹十三監督によって映画化されているが、劇中劇を避けたためであろうか、この章は映像になっていない。

タルコフスキー監督の「惑星ソラリス (Солярис)」はアメリカで発売されたVHSのテープを持っていたが、ロシアでDVDが発売されるとすぐに取り寄せた。タルコフスキーも、原作者であるスタニスワフ・レムもこの映画はなかったことにしたいほどの作品だったようだが、少なくとも私は気に入っている。スティーブン・ソダーバーグ監督、ジョージ・クルーニー主演でリメイクされた「ソラリス」よりも見ごたえがあると思う。このDVDには多言語の字幕が付いているが、日本語字幕は過去のものと訳が少し異なっており、たとえば主人公クリスの親友ギバリャンは「物理学者」とされていたものが「生理学者」に訂正されていたりする。

それにしても、QWERTYと似ても似つかないロシア語のキーボード配列にはいまだに慣れておらず、たどたどしくタイピングしている。キートップに貼るシールも市販されているが、夏の暑さでべとべとになって、キーボードに触れること自体がひどく不快になるという経験をしてから、わからないときには横に置いた配列図を見てタイプするようにしている。

GNOMEプログラミング

かつて職場の同僚(山本さん以外は私を含めて全員退職したし、山本さんの近況はわからないが巻末の著者紹介に「将来はジャズのベース弾きおよびポリグロットを目指している」などと書かれているので、その道に進んでいるのかもしれない。まあ、元気だったら連絡ください。)と共著で出版した『GNOMEプログラミング-GNOMEアプリケーション開発の基礎』(セレンディップ, 2001年)は GNOME 1.4を前提としたもので、現在の最新版2.26あるいはそれ以前の2.xではうまくいかない場合がある。当時は@IT のレビューlinux.or.jp のレビューなどで比較的よい評価をいただいていたのだが、なにぶん時が過ぎた。

対応策として、この本の2章と現行のAPIを比較し、新しいAPIに対応したプログラミングをすればよいのである。たとえば Pango などは GNOME 2.0 以降で採用されたものであって、文字列の表示についてこの本は対応していないので、その部分について自分で補えば事足りる。そういうことにしてしまうと新しい解説書は不要になってしまうが、この本を読みこなした読者にはそれも不可能ではないように思われる。

現在使われている GNOME のバージョンであるが、私の手元にあるDebian GNU/Linux安定板(これもつい最近2009年4月に etch から lenny へバージョンアップした)では今のところこんなぐあいである。

ktanaka@sputnik:~$ uname -a ; dpkg -l | grep gnome-session
Linux sputnik 2.6.26-2-686 #1 SMP Thu May 28 15:39:35 UTC 2009 i686 GNU/Linux
ii gnome-session 2.22.3-2 The GNOME 2 Session Manager

プログラミングをしないエンドユーザとして見ても、ずいぶん変化したように感じられる。

ところで、日本医師会 ORCA プロジェクトで開発されたレセプトソフトも Debian GNU/Linux に GNOME の上で動いているが、パッチ提供の頻度などを見ると、開発もそれなりに大変そうではある。ただ、使う側としてはあまり困難はないのではないだろうか。

さて、公開されているGNOMEのロードマップによれば、2010年3月にはGNOME 2.30すなわち3.0がリリースされる予定になっている。ここにいたるまで、APIの大幅な廃止・変更が予告されている。プログラマ向けに新たな解説書を書くとしたら、GNOME 3.0を前提とすべきであろう。2001年に出版した本の著作権は会社にあるので、書くとしたら改訂版ではなく当然のことながらフルスクラッチとなる。個人的には書きたいが、プライオリティの高い課題があるので、いつになるのかわからない。

羽仁五郎は無神論者でありながら、キリスト教式の結婚式を挙げている。うたがうひとは羽仁説子『妻のこころ』(岩波新書, 1979年)をみよ。たしかに現在の自由学園明日館で式を挙げているのがわかるであろう。同時に、無神論者である彼が聖書に親しんでいたということにも言及されている。

羽仁五郎は冷静に議論したい人物であるが、まずは東京学芸大学の鷲山恭彦学長が、かつて附属図書館長に就任した時の文章を読んでみたい。国立国会図書館法の前文に触れて書き出されているのだが、国立国会図書館の本館を訪ねるとわかるように、蔵書受渡カウンターの上に、日本語の「真理がわれらを自由にする」と、ギリシャ語の「Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ」が並んで刻まれおり、日本語文は国立国会図書館法前文の冒頭にある言葉である。

12年前、南西ドイツの町、スイスとの国境近くにあるフライブルク大学で4ヵ月の研究生活を送ったとき、図書館のベランダに出ると通りを隔てた大学の赤みがかった建物の壁に「DIE WAHRHEIT WIRD EUCH FREI MACHEN」(真理は汝等を自由にする)と刻んであるのを見つけた。ははん、ドイツ留学の経験をもつ羽仁さんはこれに触発されたのだな、と思った。(鷲山恭彦, 「真理は我らを結びつける」-図書館長の就任挨拶にかえて-, 東京学芸大学附属図書館報, Vol.28, No.1, 1999年6月.)

たしかにそうだったのであろう。そして、国立国会図書館のウェブサイトにおいても真理がわれらを自由にするというページを設けて、次のごとく自らの使命として述べている。

この言葉は、法案の起草に参画した羽仁議員がドイツ留学中に見た大学の銘文に由来し、その銘文は、新約聖書の「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース ヨハネによる福音書8:32)に由来するといわれています。

ここで真理という言葉のニュアンスが、聖書におけるものとはやや異なっていることに気をつけたい。日本国憲法のもとで設立された国立国会図書館は宗教との関係をもたないはずであるが、新約聖書における真理とはキリスト教的な意味を当然もっている。国立国会図書館法前文と新約聖書の言葉の上での違いは、真理によって自由になるのが「われら」であるのか「あなたたち(訳によっては「汝等」)」であるのかという点にすぎず、国会図書館内に刻まれたギリシャ語による表現では新約聖書原文との違いがまったくない

羽仁五郎がドイツに留学したのは1922年である。それに先んじて1921年には羽仁もと子・吉一夫妻によって自由学園は設立されていたし、羽仁五郎もそのことを知っていたように思われる(ちなみに、黒柳徹子の母校である自由ヶ丘学園、後のトモエ学園とは無関係である)。自由学園という校名の由来は、まさに議論しているヨハネによる福音書8:32にほかならない。羽仁五郎の留学前後における意識の変化はあったのか、あったとすればどのようなものだったのか。この点を追究することが一つの課題となるであろう。

さて、ドイツの大学において聖書のこの言葉がどのように解釈され、碑文に刻まれるようにまでなったのかということは、ドイツにおける学問の理念と密接な関係をもつことを意味するであろう。この碑文がいつ、どのようにして刻まれたのかを調べる必要があるうえ、神学的にきちんとした議論をここで展開することは私には難しいが、宗教と学問との関係を無視することは科学社会学的な観点からできない(たとえばマートンのテーゼ)。ひとまず、手元にある新共同訳の聖書で、この言葉の前後を引用しておこう。

ヨハネによる福音書 8章

31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかなが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。38わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」(新共同訳聖書, 日本聖書協会, 1987, 1988年)

この後、19章でイエスはついに十字架にかけられて処刑される。そこへいたるまでのイエスの言行が記されているが、この部分を読むだけでも平穏な状況とは考えられないものである。

ところで、そのフライブルク大学のウェブサイトで、このような文書を見つけた。もう一つの課題を解決するための資料になりそうな文書である。

Gerhard Kiser, Die Wahrheit wird euch frei machen: Die Freiburger Universitätsdevise – ein Glaubenswort als Provokation der Wissenschaft

いずれにしても、この時代のドイツにおいて、キリスト教を信仰することと科学の研究が矛盾するものではなく、神が創造した世界を探求する、ということに意義を見出すことに不自然さはなかったといえよう。

羽仁五郎に話を戻すと、彼は留学中にドイツ共産党の機関紙Die Rote Fahneを購読していたことを自著で明らかにしているが、1931年にロンドンで開催された第二回国際科学史学会における Болис М. Гессен の講演(秋間実、稲葉守、小林武信、渋谷一夫訳『ニュートン力学の形成 「プリンキピア」の社会的経済的根源』法政大学出版局, 1986年)のはるか前、1924年に日本へ帰ってきた。そして1926年、前述の『妻のこころ』冒頭で描かれている結婚式を挙げたのである。羽仁五郎の思想について研究の余地は十分にあるが、彼の唯物論(あるいはマルクス主義)とキリスト教に対する考え方は、微妙なバランスを保ちつづけたのではないだろうか。

以上、日本で初めて大学における技術史教育に取り組んだ東工大の山崎俊雄名誉教授(故人)の蔵書の中に、『中井正一全集』全4巻, 美術出版社, 1964-1981年というものがあるのに気づいて考えをめぐらせた次第。中井正一は国立国会図書館の初代副館長をつとめた美学者である。

Electrification of Russia, 1880-1926

English follows.

前期、火曜日の午後は東京学芸大学での授業があって火ゼミには出席できないのだが、2009年4~7月までの火ゼミの予定を読みなおしてみたら、

6月2日 Jonathan Coopersmith (Texas A&M University) “The Rise and Fall of Faxing: Lessons of Decline”

と書かれている。Jonathan Coopersmith さんとお会いしたのは1990年代の前半、私に直接連絡があって、火ゼミに招いて発表していただくように動いて、火ゼミが終わってから百年記念館で記念写真を撮影し、大岡山の居酒屋へ出かけて行ったような記憶がある。

今週の発表を聴くことはできなかったがファクシミリの歴史のようで、私としても関心のあるところ。以前はロシアの電化について研究書を出版されていた(表紙写真)。

Jonathan Coopersmith, The Electrification of Russia, 1880-1926, Cornell University Press, 1992.

書名にあるように、ロシアの十月革命前からネップ期あたりまでの技術史である。ここで詳しい書評をするつもりはないが、私としてはこの時代が電気工学の形成期でもあるということに着目したい。Charles P. Steinmetz が Lenin にロシアの電化に協力を申し出る手紙を出し、Lenin から謝意を込めた返書を受け取ったということが知られているが、もっと古い時代においては電気工学という体系的な科学は存在しなかったのである。

3月30日には、IEEE Student Branch at Tokyo Institute of Technology主催の講演も開かれていたようだ。

Electrification of Russia and Formation of Electrical Engineering

These days, I cannot attend Kazemi (Seminar on History of Science and Technology almost every Tuesday at Tokyo Institute of Technology) since my classes at Tokyo Gakugei University. I awared a topic in Kazemi schedule in April to July, 2009.

June 2, Jonathan Coopersmith (Texas A & M University) “The Rise and Fall of Faxing: Lessons of Decline”

I had met Prof. Jonathan Coopersmith in early 1990s. He contacted me directly and I arranged his session in Kazemi. After the session, taked pictures in the Centennial Hall, then we have a banquet at a pub in Ookayama.

I cannot attend the session in this week on history of the fax, but also interesting to me. He had previously published a book on the electrification of Russia.

Jonathan Coopersmith, The Electrification of Russia, 1880-1926, Cornell University Press, 1992.

As the book title, it is an history of technology before the October Revolution to the NEP, New Economy Plan, era. It is difficult to review in detail here, but I wish to focus on the time is the formative period of electrical engineering. As is well known, Charles P. Steinmetz wrote a letter to Lenin to offer assistance the electrification of Russia, and Lenin wrote a thanksful reply. At that time, electrical engineering was established based on complex number, however, electrical engineering as a systematic science does not exist in older age.

On the other hand, IEEE Student Branch at Tokyo Institute of Technology hosted a session on March 30.

このブログを置いているサイトのドメインネーム dendrocacalia.org あるいは common.dendrocacalia.org というのはどういう意味なのか質問を受けることがあるので、ここに書いておきたい。

Kobo Abe, Beyond the Curve

Dendrocacalia というのはキク科ワダンノキ属の樹木、ワダンノキ (Dendrocacalia crepidifolia) に由来する。小笠原固有の植物であるが、東京の夢の島熱帯植物館で栽培されているものを見ることができる。絶滅危惧種の指定も受けている。

この植物を取り上げた安部公房の短編小説がある。高校生の頃に、新潮文庫の水中都市・デンドロカカリヤに収められたものを読み、登場人物の「コモン君」とともに、拝借したドメイン名である。なお、この小説の Juliet Winters Carpenter による英訳が、短編集 Beyond the Curve に収められ、講談社インターナショナルから1991年に出版されている。

小説「デンドロカカリヤ」はこの2009年春に完結した安部公房全集の、 第2巻と第3巻に収録されている。なぜふたつの巻に収められているのかといえば、雑誌『表現』版(1949年4月20日)と書肆ユリイカ版(1952年 12月31日)という異なる版が存在するためである。詳細な議論はこのエントリでは不要と考えるが、当時の安部公房がワダンノキを実際に見たのかどうかと いうことは少し気になる。どのようにしてこの植物の存在を知ったのか、今のところよくわからない。

安部公房の娘で医師のねりさんに無断で dendrocacalia.org というドメインを取得してしまったが、当時は連絡をとる術を知らず、高校生以来の愛読者として安部公房の名誉を傷つけることはしないということでお許しいただきたいと思う。