Archive for June, 2009

テレビドラマふたつのスピカを初回から見ている.

私は1957年のスプートニク打ち上げのときにも,1961年Юрий Алексеевич Гагаринによる宇宙飛行のときにも生まれていなかった.アポロ11号の月面着陸や翌年のアポロ13号事故については,見ていたかもしれないが確かな記憶がない.ニュースで見たはっきりとした有人飛行に関する記憶は,1975年のアポロ・ソユーズのドッキングである.ソユーズの船内で双方の宇宙飛行士たちが一緒にボルシチを食したというような報道に接して,ボルシチとはどんな料理だろうかと思った.また,いつ買ったのかはっきりしないが,学習科学まんがシリーズ『宇宙とロケット』(立風書房,1972)というものを読んでいた.アポロ13号のことも書かれていたが,当時はなんのことかよくわからなかった.アポロ計画についてはそういった本から知識を得ていた.

そんなころに見た,最も印象的な写真がこれである(NASAによって撮影・公開されているもので,17 U.S.C. §105 により著作権は存在しない).
Saturn V Launching

アポロ11号の打ち上げに使われた巨大なサターンVロケットを至近距離でとらえているこの写真は,いかにも魚眼レンズで撮影されたものらしくひどく歪んでいるが,その違和感も含めた迫力は,離れたところから望遠レンズで撮影されたものとはまるで比較にならない.

それはさておき,ドラマ第2回で着衣水泳のシーンがあった.宇宙飛行士が水中訓練を受けることは知っていたが,あらためて国際宇宙ステーション搭乗宇宙飛行士募集のページにある「宇宙飛行士候補者募集要項」を読んでみると,

訓練時に必要な泳力(水着及び着衣で 75m: 25m x 3回 を泳げること。また、10分間立ち泳ぎが可能であること。)を有すること。

と書かれている.たしかに,宇宙船がどんなところに落下しようと生き延びることが求められるのであろう.1974年アメリカで放送され,日本語吹き替えでも放送されたテレビドラマ Planet of the Apes (邦題:猿の惑星)も,宇宙船が湖に着水するあたりから始まっていたように思う.NHKのドラマに話を戻すと,主人公の鴨川アスミは水泳が得意でないということになっている(演じている桜庭ななみのほんとうの泳力は知らない).それで東京宇宙学校に入学できるのかとも思ったが,フィクションなのでまあいい.

しかし,実際に宇宙飛行を経験した日本人宇宙飛行士は私より年上の人ばかりなのに,登場人物がみな若い.若いから成り立つストーリーなのかという気もする.アスミがロケット設計技師の娘というのは,テム・レイと息子のアムロ・レイという関係に似ているような気もするが,あまり気にしないようにしたい.

宇宙を目指す高校生たちということで,1999年のアメリカ映画 October Sky (邦題:遠い空の向こうに──ロケットボーイズ)は実話にもとづくものらしいが,行動力ある高校生も,彼らを陰で支える物理の教師の姿勢もよかったと思う.
October Sky

このドラマは木曜日の夜8時.柳沼行の同名コミックが原作で,2002年にNHKによりアニメ化されているらしいが,いずれも見ていない.スピカというのはおとめ座の連星らしいが,どんなふうに「ふたつ」なのかは最後まで見ないとわからないのではないだろうか.

3年間通学した母校の北九州市立思永中学校について.

このサイトを見ると,今年度から新校舎での授業が始まったことがわかるが,それ以外に市民への温水プールの公開もおこなわれているとのことである.これはよいことだと思う.

あの当時,水泳部が存在したのかどうかよく憶えていないが,温水プールはなかった.渇水による給水制限で,その夏は水泳の授業がなくなったことを確かに記憶している.暑い夏であった.

校舎の建て替えで気になるのは音楽室である.私が中学生だったころ,音楽室のスピーカーはAltec Lancing A7(もしかしたらエンクロージャはAltec製ではないかもしれないが,内部のユニットは本物である)であって,これで1年生はアントニオ・ヴィヴァルディの「四季」とか,3年生はベドルジハ・スメタナの「モルダウ」などを鑑賞する授業などを受けていた.曲が決まっているのは,文部省学習指導要領に定められていたためである.

ちなみに,アンプは6CA7(同等のEL34というドイツ・テレフンケンによるものかもしれない)と呼ばれる真空管を出力管としたものであった.かなり贅沢な環境だったように思う.CDはそもそもなかった.あのような機器はどうなってしまったのか気にはなる.

国立天文台編『理科年表』の「楽音の基本周波数」の記述内容が、2009年版(第82冊, 丸善, 2009, 物76.)で大幅に変わっている。

「国際標準イ = a1 = 440 Hz に基づく十二平均律の音階」という a1 = 440 Hz とされている表に、次のような注釈。

1939年5月ロンドンにおける国際会議で、イ(1点) = a1 とする十二平均率が規定され、独唱、合唱、管弦楽などすべての音楽演奏でこの値を用いるように申し合わせがなされた。しかし現在、音楽関係では主として a1 = 442Hz が用いられている。

2007年版の理科年表(第80冊, 2007, 物76)では同じ表に次のような注釈がついていた。表との関係から、a1 = 440 Hz を意味している。

1939年5月ロンドンにおける国際会議で、イ(1点) = a1 とする十二平均率を規定し、独唱、合唱、管弦楽などすべての音楽演奏でこの値を厳守すべきことが定められた。現在、音楽関係では主としてこの値が用いられている。

これは大違いのような気がする。音楽界に何が起きたのか? それとも理科年表が実態とかけ離れていたのか?

このあたりの事情について、森太郎による説明日本音響学会のサイトにあった。

現代の楽器を用いる場合でも,440 Hz から幾分外れた周波数が使われることも多いのが現状です。日本のオーケストラの多くは 442 Hz を採用していることが多いようですし,海外のオーケストラの中には 445 Hz や 446 Hz を採用しているところがあります。446 Hz の場合,440 Hz より 26 セントも高い音です。その方が弦楽器の張りが強くなり,よく響くようになる,と主張する音楽家もいます。

そうとは知らなかった。たしかに、国際会議の決定なんかを厳守して演奏する必要はないであろう。

ところでこの1939年5月の国際会議というのは誰が主催して、どんな参加者がいたのか、少し気になる。当時のロンドンといえば第二次世界大戦の直前の状態である。

少しだけ調べてみると、このあたりのことに触れた資料が見つかった。Jonathan Tennenbaum, A Brief History of Musical Tuning, Reprinted from Fidelio Magazine, Vol. 1, No. 1, Winter 1991-92. 気になるパラグラフがある。

The first effort to institutionalize A=440 in fact was a conference organized by Joseph Goebbels in 1939, who had standardized A=440 as the official German pitch. Professor Robert Dussaut of the National Conservatory of Paris told the French press that: “By September 1938, the Accoustic Committee of Radio Berlin requested the British Standard Association to organize a congress in London to adopt internationally the German Radio tuning of 440 periods. This congress did in fact occur in London, a very short time before the war, in May-June 1939. No French composer was invited. The decision to raise the pitch was thus taken without consulting French musicians, and against their will.” The Anglo-Nazi agreement, given the outbreak of war, did not last, so that still A=440 did not stick as a standard pitch.

1939年の(ここには5月から6月と書かれている)会議が Joseph Goebbels によって実質的にオーガナイズされたというのは意外というより驚きである。ナチス時代のドイツ宣伝相ゲッベルスではないか。反対意見をもつフランスの作曲家は招待されなかったとも書かれている。しかし残念なことに、文献をひとつしか参照していないトンデモ論文を拾ってしまったのかもしれないという気にもなる。ただ、書かれていることは気にかかるので、時間があったら少し調べてみたい。ロンドンでの国際会議の記録をどこまで入手できるかにかかっているようにも思う。

うちのネコは動くものになみなみならない関心を抱いて、ときにはとんでもないことをしてしまう。

ネコのプリンタ観察

今回は無事だったが、これまでに、紙がフィードされていくのを必死で阻止して故障にいたらしめたことや、ファクスから紙が出てくるのを手(本当は前足なんだろうけど)で押さえて紙詰まりにしたうえ内部に異物を落とし込んでやはり故障にいたらしめたことなど、いたずら無数である。

それでもかわいいのは、親ばかとしかいえないのかもしれない。しかし、ネコとしては本気で大切なことを一生懸命やっていたのであろう。

卒論・レポートの書き方・ポータルサイト@卒業論文というところを見た。

とりあえず、ダメ出し。

プロの論文を見ようというページで紹介されているプロの論文であるが、これを卒業論文として提出しても0点であろう。これは「プレゼンテーション用スライド」であって論文ではないこと、そして個人の単独執筆によるものでなく無記名であること、という2点がその理由である。

まず、「論文ではない」という点であるが、論文とは文章を中心に構成するものであって図表類はそれを補うために用いられる。しかし、この「プロの論文」は、Microsoft PowerPoint で作成されており、おそらく執筆者自身も論文とは考えていないと思われるのだが、図表類が中心になっている。このようなものは、プロジェクタで投影しながら発表するための資料であって、論文とは呼ばない。

それから、大学における卒業論文や授業でのレポートは個人を評価するものであるから、原則として単独で執筆する。ところが、ここで紹介されているものは、

通商産業省機械情報産業局(電子政策課)
アンダーセンコンサルティング

という組織名によるもので、概要編に担当者の姓のみを含む連絡先が書かれているばかりである。そして本編には組織名さえ書かれていない完全無記名である。内容はどうであれ、執筆者の氏名が書かれていなければ0点である(現実には注意されて書くことになるであろうが)。ついでに社会人の常識として、公的な文書に記載する会社名は「アンダーセンコンサルティング」という略称ではなく、「アンダーセンコンサルティング株式会社」と正式名称を用いるべきである。

つづいてネット時代のお作法というページについて。日本には「著作権保護法」という法律は存在しない。明らかに著作権法のことを指しているはずなのだが、このページの執筆者はどのように調べたのか不思議である。著作物の盗用がルール違反なのはネット時代以前から同じことであるが、このページで紹介されているように、盗作に対しては相応のペナルティが課せられることを肝に銘じておくべきなのは確かである。

ところで、このページでは引用をオリジナルの文献から一字一句とりだす quotation のようにとらえているようである。引用符 (quotation mark) で括る、あるいは字下げ (indent) によって引用した部分を明示する(そのため HTML には blockquote というタグが用意されている)などのことは必要である。それはそれでいいのだが、参考文献からいちいち文章を抜き出さず、

○○は△△について××との見解を示している[文献番号]

(論文末尾に番号付きの文献リスト)

というような形での参照も含めた citation について知っておいたほうがよい。いずれにしても、オリジナルの文献が特定できるようにしておかなければならない。LaTeX に cite というコマンドがあるのはだてではないのである。

さらに、ネット時代の正しいパクリ方(メタパクリ法)紹介とあるが、論文は自分の書きたい道筋で書けばよいのであって、「メタ化」という作業自体がむしろ面倒なのではないだろうか。あまり参考にならないページだと思う。

それにしても、引用と盗用の区別ができない社会人がいる。それから、著作者に無断で引用することがいけないと勘違いして、自治体議員の海外視察報告書に「無断引用」があったというような見出しをつけて記事を書く新聞記者もいる(実際は引用ではなく盗用、あるいは丸写し)。例として、ググってコピペして海外視察報告書(奥村晴彦)など、「無断引用」でググってみればわかるが、ウィキペディアや学術論文などからの盗用が「無断引用」と呼ばれていることは珍しくない。

最後のダメ出し。有罪?無罪?パクリの程度別判定というページにある、「パクリの程度」が

一部の章や項目だけ他人のレポート・論文をコピペし、表現や助詞を多少変えて(「は」を「が」に変換等)引用を明示しなかった

というのを「グレーゾーン」としている判定表が載っているが、これはグレーゾーンではなくアウトである。

以上であるが、別のサイトレポートレポートJPを見ると、ここにもやはりレポートのパクり方として、前掲のサイトとほぼ同一内容の「メタパクリ法」が掲載されている。@卒業論文とレポートレポートJPのどちらがパクり、パクられたのか不明であるが、このようなパクリはアウトであろう。あるいは、@卒業論文のサイトにレポートレポートJPへの入口があるので、互いに関連性の強い組織が運営しているのかもしれない。

レポートレポートJPで他人のレポートを読むこと自体は別にかまわないが、「メタパクリ法」によらないのであれば、さまざまな大学のウェブサイトで公開されている卒業論文・学位論文などへのアクセスはさほど困難ではないし、所属している大学の附属図書館(利用可能であれば近隣の大学附属図書館、比較的大規模な公共図書館)の蔵書・電子化文書のほうが参考文献として有用なものが多いと考える。

追記(2009年7月9日)
「プロの論文を読む」ということで,いくつかの論文を紹介した.
プロの論文を読む:ソフトウェア工学編
プロの論文を読む:経営学・組織論編
プロの論文を読む:信頼性工学編
プロの論文を読む:憲法学編

キーマンズネットSHOOTIの IT 単語帳 ARPAnet の項目について、ツッコミを入れておく。

まず、「各地に分散したUNIXコンピュータ同士をTCP/IPで相互接続する」という部分について。RFC 2235 日本語訳の年表、1969年のところを見ると、ARPANETの最初のノードが記されているが、ここに接続されているコンピュータのOSはいずれもUNIXではない。というかUNIXは A Brief History of Hackerdom に書かれているように1969年に一応完成したもので、ARPANETのはじまりには間に合っていない。また、ARPANETでTCP/IPが使われるようになったのは1983年1月1日からのことである。TCP/IPに関する研究の成果が最初に発表されたのは1974年のIEEE Transactions on Communications Systems 誌上の論文で、標準として選ばれたのは1982年。したがって、ここは「各地に分散したコンピュータ同士を相互接続する」と訂正したい。

それから、「当時主流だった中央集中型ではなく分散型を選んだのは、核攻撃を受けても全体が停止することの無いコンピュータシステムを作るためだったといわれている」という部分については、俗説であると指摘されている。喜多千草, モバイルコンピューティングの技術史──「パケット無線」をキーワードに, Mobile Society Review 未来心理, No. 7, 2006, pp. 45-46. [PDF] などを参照。

追記 (June 24, 2009)
森石峰一による森石流!“たとえ”でわかる最新ネットワーク用語集におけるARPAnetの項目について。

これにはARPAnet の歴史的背景についての別の見解という別記事項があり、「インターネットの前身は ARPAnet で、これはアメリカ国防総省高等研究計画局が、核戦争でも生き残る通信網の構築を目指して敷設したものだ。」という説明について「別の見解」(杉沼浩司, インターネットの前身、ARPANETは耐核戦争用ではなかった!, New Media, 2002年11月号)があることをとりあげている。私の意見はおそらく「別の見解」に近いのであるが、3つの論拠からこれに対する反論がなされている。

最初の論拠について。

ARPAnet はアメリカ国防総省高等研究計画局が中心となって開発された、国防上重要なコンピュータ・ネットワークであること。たとえば、ポール・バランが発表した「分散型通信システムについて」という論文は、発表当時、アメリカ軍により極秘扱いにされ、一般人は閲覧することができませんでした。このことからも、 ARPAnet の重要性が分かります。

ポール・バランの論文は極秘でもなんでもなく、ソ連側からも閲覧可能だった(しかしあまり関心をもたれなかった)とポール・バラン自身が述べている。
参考文献 ポール・バラン (インタビュー) 聞き手: 藤原洋, パケット・スイッチングの発明者 ポール・バラン氏に聞く, オープンネットワーク, Vol. 2, No. 2, 1997, pp. 49-54.

二つ目、「異なる見解」が Vint Cerf 本人から得た回答にもとづくものであることに対して、次のような議論。

国防上重要なものであればなおさら目的を明かさずに進める可能性があります。したがって、これは推測ですが、TCP/IP を開発した1人であるビント・サーフ博士(当時 UCLA の大学院生)でも、アメリカ国防総省高等研究計画局内の ARPAnet について決裁権を持っている人の目的は、伝えられていないのではないかということです。

「これは推測です」ということなので、論拠にはならないと思われる。あえていえば、ARPAの研究部門 Information Processing Techniques Office (IPTO) の責任者であった J. C. R. Licklider らに関する詳細な調査にもとづいた著作(インターネットの思想史、草土社、2003、これは京都大学の博士論文の前半部分がベースとなっている)のある喜多千草も、ARPANET が軍事目的のネットワークであったということについては「俗説」と、否定的である(前掲のPDF)。

三つ目、ARPANETに関する海外のウェブサイトに「核攻撃」という言葉がいくつか見られるというもの。杉沼浩司が「この説明は日本だけのもの」としていることを意識しているものであろう。

ARPAnet の記述内に、核攻撃という言葉を見ることができます。これは、アメリカ国内でも ARPAnet が耐核戦争用に開発されたコンピュータ・ネットワークであることが認められていることのひとつの表れでしょう。

英文でも ARPANET について、核攻撃や核戦争との研究の関連についての記述ならばいくらでもある。ペンシルヴァニア大学のPh.D.論文をもとにした単行本を紹介しておく。
Janet Abbate, Inventing the Internet, MIT Press, 2000. (邦訳) 大森義行, 吉田晴代 (共訳), インターネットをつくる──柔らかな技術の社会史, 北海道大学図書刊行会, 2002.
この本で、特に1章「白熱と冷戦: パケット交換の起源と意義」では冷戦下でのパケット交換に関する研究について述べられているが、ARPANET が核戦争に耐えるためのネットワークであったという記述はない。

以上のとおり、件の用語集にある記述は想像の域を出ないものと考えられる。

デジ造昔、ビデオカメラで撮影したテープが再生できなくなりそうなので、デジ造というものを使ってDVD に変換して保存しておくことにした。

これがけっこう大変な作業である。編集されていないテープをいちど全部見てメモをとり、それにもとづいて映像を取り込んでチャプターを設定し、完結したDVDをつくるという作業。

アナログの映像が、同期のとれた状態でなければ映像の取り込みはできないということで、しかたなく最初の数フレームを捨てることもしばしばある。

作業中は集中していなければならないので、ほかのことができない。ブログの更新頻度が低下しているのはこのためである。

IEEE (電気電子学会)、正式には the Institute of Electrical and Electronics Engineers が毎月発行している The Institute という新聞がある。これは IEEE Spectrum という雑誌とともに IEEE 全会員に配布される。少し前まではタブロイド版だったと思うのだが、現在はタブロイドの半分より少し大きいくらいのサイズになっていて、コート紙にフルカラー印刷で、まるで雑誌のようである。しかし、紙を重ねて折ってあるだけなので雑誌ではなく新聞であろう。

The Institute June 2009The Institute の最新号 (Vol. 33, No. 2, June 2009) は、IEEE の創立125周年を記念する特集号のようになっている。

1面、Celebrating 125 years という大きな見出しが目を引き、Editor’s Note では、”Looking Back 125 Years”“Tracking Tech History” という二つの記事を紹介している。

“Looking Back 125 Years” (by Anna Bogdanowicz) は、IEEE の前身である the American Institute of Electrical Engineers (AIEE) と the Institute of Radio Engineers (IRE) というふたつの組織と、それが合併して IEEE が成立した過程について触れている。1884年5月13日に小さなグループとして発足した AIEE と、無線技術の発達にともなって成立した IRE の発展、そして双方の歴史的合併により、1963年この分野では世界最大の学会である IEEE が成立した経過が簡潔にまとめられている。

もうひとつの  “Tracking Tech History: A look at the evolution of three critical innovations” (by Michael J. Riezenman) は電気・電子関係の技術の歴史に関するより一般的な記事である。取り上げられている技術は携帯電話、薄型化が可能で集積回路に利用されるようになったプレーナ型トランジスタ、そしてインターネットである。

この新聞には見落としそうな記事も載っている。IEEE Conference on the History of  Technical Societies という、8月5日から7日までフィラデルフィアで開催される会合の案内である。

この会合は IEEE History Center が主催するものであるが、日本の関連学会、すなわち電子情報通信学会 (IEICE)電気学会 (IEEJ)計測自動制御学会 (SICE) もかかわっている。

The IEICE (The Institute of Electronics, Information and Communication Engineers, Japan) is Banquet Underwriter. The IEEJ (The Institute of Electrical Engineers of Japan) and the SICE (The Society of Instrument and Communication Engineers, Japan) are Conference Supporters.

私はこの会合に出席する予定はない。

Robert H. Zakon による Hobbes’ Internet Timeline を見たら、RFC 2235 (FYI 32) の日本語訳として Internet Archive のファイルにリンクされていた。私のサイトでディレクトリ構成を変更したときにロケーション不明となったのだと思う。

そこで、現在のロケーションと、ついでに PDF 版の所在をを知らせた。PDF 版はテキスト版を歌代和正の a2ps 1.45 で PostScript に変換して、Adobe Distiller で PDF にしたものである(元ファイルの名前が stdin になっているが、これは標準入力の意味)。

Hobbes’ Internet TimelineRFC 2235 (FYI 32) は、いずれも1957年のスプートニクの打ち上げから始まっている。1960年代についてはいくらかの改訂がなされている。

1997年に確定されたRFC/FYI 版では、1960年代前半について次のように記述されている。

1962
Paul Baran, RAND: “On Distributed Communications Networks”
- Packet-switching (PS) networks; no single outage point

1965
ARPA sponsors study on “cooperative network of time-sharing
computers”
- TX-2 at MIT Lincoln Lab and Q-32 at System Development
Corporation (Santa Monica, CA) are directly linked (without
packet switches)

改訂されたものは次のように修正と追加がおこなわれている。

1961
Leonard Kleinrock, MIT: “Information Flow in Large Communication Nets” (May 31)
* First paper on packet-switching (PS) theory

1962
J.C.R. Licklider & W. Clark, MIT: “On-Line Man Computer Communication” (August)
* Galactic Network concept encompassing distributed social interactions

1964
Paul Baran, RAND: “On Distributed Communications Networks
* Packet-switching networks; no single outage point

1965
ARPA sponsors study on “cooperative network of time-sharing computers”
* TX-2 at MIT Lincoln Lab and AN/FSQ-32 at System Development Corporation (Santa Monica, CA) are directly linked (without packet switches) via a dedicated 1200bps phone line; Digital Equipment Corporation (DEC) computer at ARPA later added to form “The Experimental Network”

これは2006年まで更新されているが、その後は追跡していないようにも見える。私のインターネットの歴史というページもしばらく更新していない。文献は増えるばかりである。

追記 (June 16, 2009)
この年表で、Paul Baran の “On Distributed Communications Networks” が1962年から1964年に変更されていることについて。
この報告書は1964年に発行されているので、1962年としていた RFC/FYI の記述から妥当な訂正がなされたともいえる。しかし Baran がこの研究に着手して、最初の報告書 On Distributed Communications Networks を書いたのは1962年のことであり、RFC/FYI 版の記述が誤りというわけではない。

NHKニュース7を見ていたら、このニュースに目がとまった。

内陸地震1年 栗原市で追悼式
6月14日 12時44分
15人が死亡、8人が行方不明となっている岩手・宮城内陸地震から14日で1年になります。大きな被害を受けた宮城県栗原市では、およそ1300人が出席して、犠牲になった人たちの追悼式が開かれました。

追悼式の式場で「主よ、人の望みの喜びを」として知られる BWV 147 の第10曲が、歌のないピアノ演奏で流れていることが伝わってきた。

歌詞は次のとおり。著作権ははるか昔に切れている。

»Jesu, meiner Seelen Wonne«, 16

Jesus bleibet meine Freude,
Meines Herzens Trost und Saft,
Jesus wehret allem Leide,
Er ist meines Lebens Kraft,
Meiner Augen Lust und Sonne,
Meiner Seele Schatz und Wonne;
Darum laß ich Jesum nicht
Aus dem Herzen und Gesicht.

YouTube で、どこの教会における演奏なのかよくわからないのだが、主よ、人の望みの喜びをの映像を見つけた。ステージでの演奏もある。個人的には村治佳織によるギター独奏もいいと思う。

しかし、この曲は追悼式にふさわしいものなのだろうか。すぐに思いつくのは賛美歌320番(主よ、みもとに近づかん)である。アニメーションの「フランダースの犬」でネロとパトラッシュが天国へ旅立つ場面で使われ、また沈没しつつあるタイタニックで、楽士たちが避難しようとした足を止めて、あらためて演奏された曲でもある。悲しすぎる曲のような気もするが、実際に悲しい出来事である。

あまりだらだらと書くのはよそう。