Archive for the ‘研究者’ Category

インターネット 歴史の一幕:JUNET の誕生(JPNIC ニュースレター No. 29,2005年3月)という記事で引用されている石田晴久の言葉である.

同氏はこの3月に亡くなられた.情報処理学会の機関誌「情報処理」7月号(Vol. 50, No. 7)で「『あの時代』に想いをはせて―証言者達からのメッセージ」という小特集が組まれているが,次のような追悼記事からなっている.

編集にあたって (中川晋一・川合慧)
そこにはいつも,先生の本がありました―出版を通じてのご貢献― (小山透)
情報化時代の幕開け―みんながコンピュータに熱中した時代からのメッセージ― (青山幹雄)
「情報処理」大変革の夜明け前―石田編集長の誕生に向けて― (諏訪基)
INET91,ISOC,INTEROP,IAJ―石田晴久先生とともに (高橋徹)
石田先生から受け継いだもの (砂原秀樹・村井純)

私は同氏と面識もないが,名前を知ったのは大学生の頃で,ブライアン・カーニハンとデニス・リッチーの著書の日本語訳『プログラミング言語 C』を読んだことによる.カーニハンとリッチーの頭文字から K&R と呼ばれる有名な本であるが,前にも書いたように最初は原書を読み,手元に置いてプログラミングをしたいと思い訳書を大学生協で購入した.Cに精通している訳者だけあって読みやすかった.同氏の著作や翻訳はたくさんあるが,専門書であっても読者を惹きつける魅力があった.

ところで,このエントリのタイトル「村井君。3つ以上つながってはじめてネットワークと言うのだよ」という JUNET に関する同氏の発言について,小特集の最後の記事「石田先生から受け継いだもの」にその真意が書かれている(p.658).

村井はJUNETにいろんな組織を参加させようと奔走していたのであるが,「東京大学がやっていないものは研究じゃないでしょ.そんな実験には参加できないよ」と言われて困っていたのだそうである.そんな話を聞きつけた石田先生が,「じゃあ村井君,東大をつなごう」とおっしゃられたのである.

このあたりの事情は,村井純『インターネット「宣言」―急膨張する超モンスターネットワーク』(講談社,1995)にも書かれているが,慶應と東工大の間を接続したところに東大も接続して JUNET が成立したというわけである.同書には初期の JUNET が電気通信事業法のうえで合法的なものかどうか郵政省から明確な回答が得られていなかったとも書かれているのだが,石田氏はそういった実験にも積極的に協力する人物であった.

ここで今になってお悔やみの言葉を述べても意味はないだろうが,同氏の著作は優れているので読んだことのない人にはおすすめしたい.

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プロの論文を読む:ソフトウェア工学編
プロの論文を読む:経営学・組織論編
プロの論文を読む:信頼性工学編
につづいて,法学に関する論文を紹介する.連載はこれで一応おわりである.

山本龍彦, 遺伝子プライヴァシーの考察:「遺伝情報」の分類と憲法的位置付け, 法政論叢, Vol. 38, No. 2, pp. 1-24, (2002)

これも論文そのものは,論文タイトルのリンク先(国立情報学研究所)よりPDFで全文を読むことができる.

文系の論文ではしばしば縦組みで出版され,この論文もそうである.本文中に英文が横を向いて挿入されている部分もあるが,そのような伝統である.もちろん,文系でも横組みの出版物はある.

ページ数24+英文要旨1ページのかなり包括的な内容であり,次のような構成となっている.

一 はじめに
二 アメリカにおける議論と「遺伝情報」の類型化
三 DNA 情報領域
(1) 「情報」としての可能性
(2) 「情報」としての限界
(3) 検討
四 DNA 獲得情報
(1) 遺伝子例外主義の立場
(2) 遺伝子例外主義に反対する立場
(3) 検討
五 DNA 指紋 (DNA fingerprint)
六 結語
(末尾に参考文献を含む註66項目,および英文要旨)

この論文は,主として法学の専門家が読む雑誌に掲載されたものであるが,「遺伝情報」という比較的新しい自然科学の領域に関する憲法学的な議論を展開したものである.内容をみていこう.

「一 はじめに」では,序論として遺伝情報の収集・利用に関する憲法的位置づけが必要であり,それが侵害された際の審査基準等について議論する必要があるという課題の設定がなされている.具体的には,遺伝情報に関する権利は,プライバシー権に関する通説である自己情報コントロール権と同様なのか,遺伝情報を従来の情報と同質のものであるのかといったことである.ここで結論がすでに述べられており,遺伝情報ないし遺伝子情報は多義的に捉えるべきもので,
1) 従来の自己情報と異なり憲法上新たな位置づけが必要な「DNA 情報領域」
2) 「プライバシー固有情報」に属する「DNA 獲得情報」
3) 「プライバシー外延情報」に属する「DNA 指紋 (DNA fingerprint)」
という3つに類型化できるとされている.
なお,この論文は憲法学的総論であって,個別具体的な議論や民事法学的な観点からの議論はしないという,課題の限定もおこなっている.

「二 アメリカにおける議論と「遺伝情報」の類型化」では,まずジョージ・アナスにより1993年に発表されたた論文などから,「遺伝情報」が他の自己情報と異なる特段の保護を要するという「遺伝子例外主義」の見解を紹介している.それに対して「遺伝情報」も他の自己情報と同等に扱うべきであるとの批判的見解があることも紹介している.
そして,アメリカにおける議論では「DNA そのもの」と,「DNA 獲得情報」の2段階で議論されているという.ただし,ここで著者は「DNA そのもの」は遺伝子として意味をなす DNA エクソン部分(DNA 獲得情報)と,遺伝的形質には影響を与えず個人の特定や親子確認に用いられる DNA イントロン部分(DNA 指紋 = DNA fingerprint)の別があり,単純な2段階の議論では不十分であるという見解も示している.

「三 DNA 情報領域」では,DNA エクソン部分について論じられている.この DNA 情報領域について次のような3段階の議論がなされている.
(1)「情報」たりうるという可能性を認めて,自己情報のコントロール対象と認識できることを重視すべきとの考えが示されている.
(2) その一方で,自己情報コントロール権の前提たる「情報」としては,3つの点において限界(本質的限界・主体的コントロール性の限界・生命倫理的観点からの限界)があるという考えが示されている.
(3) それぞれの見方を対比して,DNA 情報領域が古典的プライバシーにおける私的領域としての性質を有するとの見解を示している.また,DNA 情報領域が高度のセンシティブ性から日本国憲法第13条(幸福追求の権利)を根拠としてきた自己情報コントロール権による保護されうるかという論点があることも表明し,第19条(思想および良心の自由)による保護も検討に値するとされている.

「四 DNA 獲得情報」では,DNA 情報領域から得られる遺伝的形質に関する自己情報である.ここでは,DNA 獲得情報を独自的・例外的にあつかうべきとする立場(遺伝子例外主義)とそれを批判する見解が対比されている.
(1) 遺伝子例外主義の根拠として次の3点が挙げられている.
a) 遺伝子疾患に罹患することについての予見可能性が第三者に知られること.
b) 血縁者や類似の人種など,遺伝的近親者の間で遺伝情報が共有されることにより個人のアイデンティティが弱められること.
c) 遺伝的形質による差別やスティグマ化(レッテル貼り)に使われるおそれがあること.
(2) 遺伝子例外主義に対する批判的立場からは,それぞれの点について次のように主張されているとされている.
a) 遺伝的でない疾患についても予見可能性はあること.
b) 遺伝的近親者の健康上の利益も考慮されるべきであること.
c) 遺伝情報でない一般の医療情報もスティグマ化に使われうるものであり,DNA 獲得情報のみを例外とするのは不合理である.
(3) 双方の立場による主張を検討した結果,DNA 獲得情報に関しては他の一般的医療情報と同等のものとみなすことができるという見解がとられている.また,DNA 情報領域と DNA 獲得情報を区別するという著者の見解に対して想定される批判に,あらかじめ反論がなされている.

「五 DNA 指紋 (DNA fingerprint)」
遺伝的形質とは無関係な DNA 指紋については,遺伝との直接的関係はなく個人を識別する情報として扱われ,従来の指先の指紋と同様にプライバシー外延情報と位置づけるのが妥当との考えが示されている.

「六 結語」
著者は遺伝情報を DNA 情報領域,DNA 獲得領域,DNA 指紋に分類し,DNA 情報領域のみが従来のプライバシー概念すなわち自己情報コントロール権の枠組みになじまず,DNA 獲得領域と DNA 指紋については従来の枠組みで議論できるとの考えるに至った.異なる議論はあるかもしれないが,今後も詳細な検討を続けるとしている.最後に,遺伝情報の多義性に言及して,遺伝情報の類型化は不可欠であることが強調されている.

以上のような内容であるが,相反する意見を慎重に検討して自説を導き出すプロセスがわかる論文であるといえよう.

ところで,「遺伝情報」あるいは「情報」などに関する法学的な定義づけが議論の途上にあることもわかる.工学的な情報理論においては,クロード・シャノンによる「情報量」の定義づけがおこなわれたが,「情報」の定義はなされていない.人文・社会科学領域も含む情報学においても情報の定義については議論の途上にある.法学における学説上の議論は立法や法解釈にも影響を与えるものであり,情報学の観点からも注目すべき論点である.また,法学者・法曹家のようないわゆる文系の専門家も,自然科学や工学の発展にともなう議論・研究をしなければならないという例であるともいえる.

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プロの論文を読む:ソフトウェア工学編
プロの論文を読む:経営学・組織論編
につづいて,信頼性工学の学会誌に掲載された部品の論文を紹介する.

田村高志, 宇宙開発のキーを握る部品問題, 日本信頼性学会誌:信頼性, Vol. 30, No. 5, pp. 420-425, (2008)

著者はJAXAの技術開発をになう研究者である.論文そのものは,論文タイトルのリンク先(国立情報学研究所)よりPDFで全文を読むことができる.内容は次のとおりで,冒頭に概要が付いている.

概要
1. はじめに
2. 宇宙用部品とは
3. 宇宙用部品の課題と対策
(1) 輸入部品の入手性
(2) 部品の品質
(3) 国産部品の入手性
(4) 鉛フリー化への対応
4. 課題への対応
(1) 入手性の改善
(2) 品質確保
5. まとめ
参考文献

概要の最後の部分で「本稿では,宇宙開発のキーとも言える部品問題に焦点を当て,現状の課題と将来に備えるための方策について述べる.」と書かれているとおりであるが,ここで部品と呼ばれているものは,全文を読めばわかるようにおおむね電気・電子部品である.

以下,補足説明をまじえながら節ごとに要約してみる.

第1節は,文字通りの序論である.まず宇宙開発に関する状況を説明し,ロケットや人工衛星に用いられる電気・電子部品のあり方について課題があり,今後10年間の見通しを検討するとしている.

第2節では,まずロケットや人工衛星に用いられる電子部品が特殊であり「宇宙用部品」と呼ばれること,世界の多くでアメリカの軍用規格 (MIL) にもとづく部品が使われていることを説明している.それから,「宇宙用部品」に要求される信頼性をミッション期間(たとえばロケットは衛星を打ち上げれば数時間でミッションを終え,用途によるが人工衛星はそれよりも長く使われ,宇宙ステーションはさらに長期間使われる)と電子部品・回路の先端性・複雑性によって異なることが3軸の図で示されている.また,宇宙では放射線を受けるということから,最新のマイクロプロセッサから数年遅れで耐放射線性マイクロプロセッサの開発がおこなわれていることを紹介している.また,欧州連合によって電気・電子危機への有害物質(重金属等)の使用禁止指令(RoHS 指令)により「鉛フリー化」への対応が迫られることを指摘している.さらに,「宇宙用部品」の市場規模が非常に小さく,調達が困難になってきていることと信頼性を確保することが課題であることを明らかにしている.

第3節では,実際の開発経験から4つの課題を挙げている.
(1) 「宇宙用部品」の多くがアメリカ軍用規格品であることから,部品が武器流通とみなされ,納期の遅れや技術情報の入手が困難であることなど.
(2) 一般的な半導体部品の多くがプラスチックでモールドされた形で製造されているのに対して,「宇宙用部品」の多くは古くからある金属の容器に収める CAN 封止タイプ,セラミック封止タイプであり,生産設備の老朽化などの問題があることなど.
(3) 輸入に依存しないために国内業界に協力を得られるかというと,市場規模等の問題から,厳しい状況にあること.
(4) 現在のところ「宇宙用部品」は RoHS 指令の対象外ではあるが,部品業界が鉛フリー化を進めている状況のもとでは「宇宙用部品」にも影響があること.

第4節では,それまでに挙げた諸課題が,継続的な入手ルートの確立と品質確保の2点に集約されるとしたうえで,具体的対応が述べられている.
(1) 入手性については,欧州の動きを見ながら欧州域内での,最初に開発されたオリジナル部品と互換性があるセカンドソース部品の有効活用,および重要部品については国内での継続的確保が必要であるとしている.
(2) 調達した部品の品質については「オールジャパンの体制づくり」が必要であるとし,ハードウェア的な部品実装技術の高度化や堅牢 (rubust) な設計などの技術開発が望まれるとしている.

第5節は結論である.まず調達する立場から,各種の人工衛星に対してそれぞれ適切な部品の要件を規定すること.国内の宇宙産業界による品質確保とコストダウン,および国内電子部品業界が協力しやすい環境をつくることの重要性を強調して締めくくっている.

以上みてきたように,この論文は純粋に技術的な議論ではなく,部品の生産・調達および品質に関する現状をふまえ,問題点を明確にして,業界に対する呼びかけも含めた対応策を提言するものとなっている.

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プロの論文を読む:ソフトウェア工学編に続いて社会科学の分野から,チャレンジャー号とコロンビア号の二度にわたるスペースシャトル事故を例として,組織と経営責任に関する検討がなされた論文を読んでみる.

桑田耕太郎, 組織理論と経営者の責任:スペースシャトル事故の分析を通じて, 成城大学経済研究, No. 179, pp. 47-72, (2008)

論文は掲載誌タイトルのリンク先である成城大学経済学部のサイトから全文を PDF で入手できる.総ページ数は26とやや長いが,アメリカ政府による調査報告書や関連資料を使って,事故の詳細な分析がなされており,専門家でなくとも読みやすい内容となっている.内容は次のとおりである.

(序論)
1. チャレンジャー号の爆発事故
NASAの安全管理組織
2. コロンビア号の爆発事故
3. なぜ大事故が起きるまで,組織は学習しないのか?
3-1. 「安全」に関する認識の差異
3-2. 「安全空間」の概念
3-3. 組織学習の効果
4. 組織理論と経営者の責任
[註]
参考文献

要約する.

まず,序論で現代社会における組織の経営者の果たすべき役割・責任が重くなっていることを指摘し,事故調査委員会の報告書などをもとに,事故と組織的要因の関係,経営者の責任について考察するという課題設定をおこなっている.

本論第1節では,1986年にチャレンジャー号打ち上げ直後の爆発事故について述べられている.スペースシャトルの部品を製造しているメーカーの技術者は,低い気温のもとでの打ち上げ中止を勧告していたにもかかわらず,NASAが打ち上げを決行した結果,チャレンジャー号は爆発して乗組員7名は全員死亡した.打ち上げを延期させることができなかったのはNASAの組織構造にあると指摘されている.部品メーカーの経営者は技術者の意見に敏感ではあったが,最終的には大きな取引先であるNASAの意向に沿う行動をとった.

本論第2節では,2003年にコロンビア号が大気圏再突入の際に空中分解した事故について述べられている.これも乗組員7名全員死亡という惨事であった.事故の直接的原因は左翼の断熱材が破損して大気との摩擦熱で翼が高温となり破壊されたこと,そしてNASAは打ち上げ直後に断熱材破損を知っていながら対応策を講じなかったことがあげられている.このような断熱材破損は本来あってはならないことだが,実はそれまでにも断熱材破損を起こしたスペースシャトルが帰還しているということから,安全性に対するルール違反が常態化していたという.

本論第3節では,コロンビア号の事故調査報告書がNASAの組織文化にあることを紹介し,「安全」に関する認識が技術者と経営陣の間で異なっていたこと,経営陣からの無理な要求に技術者がなんとか応じて成果を出してきたことなどが指摘されている.

本論第4節は結論ともいえる.このような経営者と技術者の認識構造に違いが生じることはNASAに限ったことではなく,分業によって成り立っている組織においては必然的な特徴であるとされている.そして,経営者は組織の行動やメカニズムを理解しなければならないとしている.

参考文献のリストは,社会科学でよく用いられる「シカゴ・マニュアル」に従ったもので,著者の姓のアルファベット順(欧米人も姓をはじめに書き,ファーストネームはカンマの後にイニシャルを書く)となっている.本文中ではパーレン(=丸かっこ)の中に著者名と発行年で文献を特定できるようにしている.

さて,実はスペースシャトルの事故に関する論文・著作は非常にたくさんある.そんな中でもこの論文は,事故原因を解明するということを主目的としたものではなく,事故調査委員会などによって明らかにされたことをもとにNASAの組織について論じ,そこから一般的な組織論を展開するというものである.いわば,社会科学の学説を事例によって裏付けようという試みともいえる.

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前に書いた大学における学生のレポート・論文というエントリで,「プロの論文」とされているものを「論文ではない」という指摘をしたが,ではどんな論文が「プロの論文」といえるのか? ソフトウェア工学の分野におけるプロの論文を読んでみよう.

ここでとりあげる論文は,Craig Larman and Victor R. Basili, Iterative and Incremental Development: A Brief History, Computer, Vol. 36, No. 6, pp. 47-56, (June 2003) である.ここで pp. というのは p. の複数形で,複数ページにまたがる文献を特定するために用いられる記号である.卒業論文は単著が普通だが,この論文はソフトウェア開発の歴史に触れたもので,よく読まれている有益性の高いものであるからとりあげる(Agile Alliance のページから本文へのリンクがあるようだが,これを書いている時点で www2.umassd.edu へのアクセスができないため,図書館で読むか IEEE Computer Society のサイトで入手する必要がある).

論文やレポートは誰に読んでもらうのかを意識して書かなければならない.この論文が掲載された雑誌 Computer は IEEE Computer Society の会員はみな受け取るようになっているもので,広い範囲におよぶコンピュータの専門家が対象読者である.したがって,ある程度専門的ではあるがソフトウェア工学の専門家だけを対象として書かれているわけではなく,学術論文というより技術的な解説記事という性格が強い.

内容・構成は次のように,序論と時代別の本論,そして結論へと結びつくかたちとなっている.
(Introduction) — 何について論じるのかを明確にしている
PRE-1970
THE SEVENTIES
THE EIGHTIES
1990 TO THE PRESENT
(Conclusion) — 結論
References — 参考文献リスト

この論文では独自の視点でソフトウェア開発の歴史をとらえている.ソフトウェア開発の方法として反復型開発 (interactive and incremental development, IID) が単純にウォーターフォール開発に単純にとってかわるものではなく,実は初期のソフトウェア開発でとられていた方法であることを明らかにしている.そして,ウォーターフォール開発がアメリカ国防総省の標準化によって固定化され,それによって生じた行き詰まりを打開するために再び反復型開発が用いられるようになったというわけである.

10ページの論文において45の文献が参照されている.歴史的事実や論拠を明らかにするために必要なものが選びぬかれており,十分な調査にもとづくものであることがわかる.

なお,専門家が読むことを前提とした論文では参考文献リストに記す雑誌名を略記することがしばしばある.たとえば次のようなものである.対象読者が専門家でない場合にはこのように略記しないほうがよい.
Proceedings → Proc.
Journal of Systems and Software → J. Systems and Software
IBM Systems Journal → IBM Systems J.
Communications of the ACM → Comm. ACM
IEEE Transactions on Software Engineering → IEEE Trans. Software Eng.
ACM Software Engineering → ACM Software Eng.
IEEE Annals of the History of Computing → IEEE Ann. Hist. Comput.
情報処理学会論文誌 → 情処論
情報処理学会研究報告 → 情処技報
電子情報通信学会誌 → 信学誌
電子情報通信学会論文誌 → 信学論
電子情報通信学会技術研究報告 → 信学技報
電気学会誌 → 電学誌
電気学会論文誌 → 電学論

参考文献は多ければよいというものではなく,ましてや「こんなにたくさんの文献を読みました」と自慢するためのリストでもない.ただ,確かな議論を展開するために必要なものを使えばよいのである.ウィキペディアでも,論拠がはっきりしない記述に [要出典] のタグが付けられているのを見かけるが,それと同じことである.

最後に,英語で書いてあるから読めませんという声が聞こえそうなのだが,辞書があればそれほど難しい英語で書かれているわけではないので努力してほしい.ソフトウェア開発の現場でも,あることを調べようとしたときに英語の文献しか存在しないことは珍しくないのが実態である.

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卒論・レポートの書き方・ポータルサイト@卒業論文というところを見た。

とりあえず、ダメ出し。

プロの論文を見ようというページで紹介されているプロの論文であるが、これを卒業論文として提出しても0点であろう。これは「プレゼンテーション用スライド」であって論文ではないこと、そして個人の単独執筆によるものでなく無記名であること、という2点がその理由である。

まず、「論文ではない」という点であるが、論文とは文章を中心に構成するものであって図表類はそれを補うために用いられる。しかし、この「プロの論文」は、Microsoft PowerPoint で作成されており、おそらく執筆者自身も論文とは考えていないと思われるのだが、図表類が中心になっている。このようなものは、プロジェクタで投影しながら発表するための資料であって、論文とは呼ばない。

それから、大学における卒業論文や授業でのレポートは個人を評価するものであるから、原則として単独で執筆する。ところが、ここで紹介されているものは、

通商産業省機械情報産業局(電子政策課)
アンダーセンコンサルティング

という組織名によるもので、概要編に担当者の姓のみを含む連絡先が書かれているばかりである。そして本編には組織名さえ書かれていない完全無記名である。内容はどうであれ、執筆者の氏名が書かれていなければ0点である(現実には注意されて書くことになるであろうが)。ついでに社会人の常識として、公的な文書に記載する会社名は「アンダーセンコンサルティング」という略称ではなく、「アンダーセンコンサルティング株式会社」と正式名称を用いるべきである。

つづいてネット時代のお作法というページについて。日本には「著作権保護法」という法律は存在しない。明らかに著作権法のことを指しているはずなのだが、このページの執筆者はどのように調べたのか不思議である。著作物の盗用がルール違反なのはネット時代以前から同じことであるが、このページで紹介されているように、盗作に対しては相応のペナルティが課せられることを肝に銘じておくべきなのは確かである。

ところで、このページでは引用をオリジナルの文献から一字一句とりだす quotation のようにとらえているようである。引用符 (quotation mark) で括る、あるいは字下げ (indent) によって引用した部分を明示する(そのため HTML には blockquote というタグが用意されている)などのことは必要である。それはそれでいいのだが、参考文献からいちいち文章を抜き出さず、

○○は△△について××との見解を示している[文献番号]

(論文末尾に番号付きの文献リスト)

というような形での参照も含めた citation について知っておいたほうがよい。いずれにしても、オリジナルの文献が特定できるようにしておかなければならない。LaTeX に cite というコマンドがあるのはだてではないのである。

さらに、ネット時代の正しいパクリ方(メタパクリ法)紹介とあるが、論文は自分の書きたい道筋で書けばよいのであって、「メタ化」という作業自体がむしろ面倒なのではないだろうか。あまり参考にならないページだと思う。

それにしても、引用と盗用の区別ができない社会人がいる。それから、著作者に無断で引用することがいけないと勘違いして、自治体議員の海外視察報告書に「無断引用」があったというような見出しをつけて記事を書く新聞記者もいる(実際は引用ではなく盗用、あるいは丸写し)。例として、ググってコピペして海外視察報告書(奥村晴彦)など、「無断引用」でググってみればわかるが、ウィキペディアや学術論文などからの盗用が「無断引用」と呼ばれていることは珍しくない。

最後のダメ出し。有罪?無罪?パクリの程度別判定というページにある、「パクリの程度」が

一部の章や項目だけ他人のレポート・論文をコピペし、表現や助詞を多少変えて(「は」を「が」に変換等)引用を明示しなかった

というのを「グレーゾーン」としている判定表が載っているが、これはグレーゾーンではなくアウトである。

以上であるが、別のサイトレポートレポートJPを見ると、ここにもやはりレポートのパクり方として、前掲のサイトとほぼ同一内容の「メタパクリ法」が掲載されている。@卒業論文とレポートレポートJPのどちらがパクり、パクられたのか不明であるが、このようなパクリはアウトであろう。あるいは、@卒業論文のサイトにレポートレポートJPへの入口があるので、互いに関連性の強い組織が運営しているのかもしれない。

レポートレポートJPで他人のレポートを読むこと自体は別にかまわないが、「メタパクリ法」によらないのであれば、さまざまな大学のウェブサイトで公開されている卒業論文・学位論文などへのアクセスはさほど困難ではないし、所属している大学の附属図書館(利用可能であれば近隣の大学附属図書館、比較的大規模な公共図書館)の蔵書・電子化文書のほうが参考文献として有用なものが多いと考える。

追記(2009年7月9日)
「プロの論文を読む」ということで,いくつかの論文を紹介した.
プロの論文を読む:ソフトウェア工学編
プロの論文を読む:経営学・組織論編
プロの論文を読む:信頼性工学編
プロの論文を読む:憲法学編

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何度か名前を出した羽仁五郎は、羽仁進『自由学園物語』(講談社, 1984年)に書かれているように、現在は東久留米市にある学園町で戦前からしばらくのあいだ過ごした。羽仁の自宅に集まった研究者の中には、原稿を暖炉で焼いてしまえと言われた者もいれば、ジーメンスの電気ストーブが赤外線を放っているのに、寒くてたまらないと言っていた者もいる。最寄駅は現在のひばりが丘駅(1959年4月30日までは田無町駅)である。

羽仁五郎・羽仁進『父が息子に語る歴史講談』(文芸春秋, 1987年)の中で、羽仁進が羽仁五郎に武谷三男がロシア人女性と一緒にいるのを見たと言い、羽仁五郎が知らないの一言ですませる場面があった。ロシア人女性とは、武谷ピニロピのことであろう。武谷三男は、同じ沿線の石神井公園駅の近くに住んでいた。1953年から1969年まで立教大学教授をつとめたが、所属機関のない時期も長く、論文を投稿する際に、所属機関を「トウキョウ、ネリマ」にしたと自嘲的に語ったこともある。

さて、ある物理学者という人物のブログ広重徹の武谷批判というエントリには、次のように書かれている。

広重徹の「科学と歴史」(みすず書房)の中の「科学史の方法」のところを読んでいる。この中で広重徹は武谷三段階論を科学の研究の歴史に基づいたものではなく自然の論理としても科学の歴史としても間違っているといっている。間違っているという言い方はちょっと言い過ぎかもしれないが、武谷三段階論はどうも歴史に即したものではなく、また三つの段階の間の移行の契機がはっきりしないというようなことらしい。
これはまだ印象の段階なのだが、もっときちんと広重の言っていることをつかむようにしなければならないだろう。昔、広重の武谷批判を読んだときにそれなりに納得した気になったものだったが、だが広重は新しいアイディアを出してはいないと思った。

この件に関しては、次のような文献を読んでおくとよいであろう。

  • 植松英穂, 歴史の小経-一人歩きした武谷三段階論-, 日本物理学会誌, 58, 11, 834-836, 2003.
  • 安孫子誠也, 広重徹による武谷三段階論批判, 物理学史ノート, 11, 109-125, 2008.

たしかに武谷三男は日本科学史学会の会員であったこともあるが、現在の日本科学史学会には武谷三段階論を科学史の方法ととらえている会員はほとんどいないであろう。ついでに、些細な点かもしれないが、ひとつ気になったことがある。

科学史をやっていない普通の物理学者には伏見さんにしても南部さんにしても武谷三段階論を方法論というか世界観としてはそれなりに評価していると思う。それは考え方であって、かならずしも科学史の成果とは捉えていないと思う。

伏見さんというのは伏見康治(故人)のことであろうか。伏見康治は科学史に関心が深く、1995年、日本科学史学会の名誉会員に選出されている。

まとめると、武谷三段階論は、物理学の研究者にとってひとつの指針となるものであったが、すべての物理学者が武谷三段階論に依拠して研究活動をしてきたわけではない。また、武谷三段階論は、科学史の方法論とするような性格のものでもなかったのである。

武谷三男については、技術論論争が知られている。これについてはいずれ述べることにしたい。

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キャロル・リード監督、オーソン・ウェルズ主演の映画「第三の男(The Third Man)」は、戦後間もないヴィーンで、薄められた粗悪なペニシリンが出回るというところから話が始まる。チターというギターのような弦楽器による主題曲は、何年か前にビールのCMで使われていたように思う。

角田房子『碧素・日本ペニシリン物語』日本におけるペニシリン開発の歴史をまとめた著作がある。角田房子『碧素・日本ペニシリン物語』(新潮社, 1978年)である。

海外の動向(Manfred Kiese, Chemotherapie mit antibakteriellen Stoffen aus niederen Pilzen und Bakterien, Klinische Wochenschrift, 22 Jg., Nr. 32/33, 7 Aug. 1943. いわゆる「キーゼ総説」)に触発された日本は、政府主導のペニシリン委員会を組織し、陸軍軍医学校を中心に、民間企業(製薬会社に限らず、後に製薬に取り組むようになった食品メーカーなども含まれる)の協力も得てペニシリンの独自開発にこぎつけたが、良質のものを大量生産することができないうちに終戦を迎えた、というようなことが書かれている。

日本の戦時研究を遂行するためには、海外の研究動向をなんとかして知りたいという事情があった。実際どうであったのかを角田房子は当事者であった犬丸秀雄(当時文部省科学局・ベルリン駐在)に取材して真相を突き止めている。要約すれば次のとおりである。

  • 独ソ戦が始まるまで、日本とドイツの間はシベリア鉄道で結ばれており、学術雑誌の交換も可能だった。
  • 独ソ戦開戦にともない、日本とドイツの間で学術雑誌を含む物資の交換は、はじめ民間の船舶に偽装したドイツ海軍の輸送艦、そしてUボートと伊号潜水艦の大西洋・インド洋経由での往来があった。しかし潜水艦による輸送は危険で成功率は低かった。
  • 日本がドイツの学術雑誌を入手する手段としては、まずはベルリンの日本大使館から目録を郵送することから始まり、ベルリンからスイスの日本公使館を経由して雑誌そのものを郵送するようになった(速報事業)。

速報事業については私も少し触れてみたことがある。

田中克範, 日本におけるアスカニア式自動制御装置とヤンソン製作所, サジアトーレ, No. 35, 2005年.

自動制御装置とペニシリンになんの関係があるのかといえば、ない。ここでの接点は「速報事業」のみである。ただ、私の論考では、角田房子が犬丸秀雄本人から受け取ったという論文「学術行政の一環としての速報事業」(角田房子の著作21頁ではどこに掲載されたものなのかわからない)を特定して参照している。

潜水艦による輸送の状況はどうだったのか。私のファイルサーバにメモが残っているので、あまり大したものではないがここに公表しておく。ちなみにロリアンというのはドイツに占領されていたフランスの港である。

第二次大戦中の日本・同盟国間の潜水艦輸送路(メモ)
2005/2/12

1. 日本潜水艦5隻
・ 伊30 ペナン (1942/4/20) →ロリアン (1942/8/5) 同 (1942/8/22) →ペナン(1942/10/8)→シンガポール港外で触雷沈没 (1943/10/13) 積載物の多くは潜水作業で回収 [大海指第77号]
・ 伊29 ペナン (1943/4/5) → インド洋上 (1943/4/28) U-180に江見哲四郎中佐・友永英夫技術少佐を移乗させ、物資の交換 → ペナン (1943/5/13) [大海指第205号]
・ 伊8 呉 (1943/6/1) → ペナン経由 → ドイツ占領下のフランスBrest (1943/8/31) 同 (1943/10/5) → シンガポール (1943/12/5) → 呉 (1943/12/21) [大海指第232号]
・ 伊34 呉 (1943/9/13) → ペナン入港直前にイギリス軍潜水艦トラウスの攻撃を受けて沈没 (1943/11/11) [大海指第273号]
・ 伊29 呉 (1943/11/5) → シンガポール経由 → インド洋上 (1943/12/23) ドイツ油槽船より給油 → ロリアン (1944/3/11) 同 (1944/4/16) → シンガポール (1944/7/14着、1944/7/22発) → バシー海峡にてアメリカ軍潜水艦Sawfishの攻撃を受け沈没 (1944/7/26) [大海指第273号:伊34に続いて出発]
・ 伊52 呉 (1944/3/10) → シンガポール経由 → 8/1ロリアン到着予定のところ6/6ノルマンディ上陸作戦によって入港先の確保が問題となってU530と会合、6/24連合軍による航空機からの攻撃で沈没) [大海指第322号]

2. ドイツ潜水艦4隻
・ U511(さつき1号・呂500) ロリアン(1943/5/11)→ペナン経由→呉 (1943/8/7)
・ U1224(さつき2号・呂501)キール (1944/3/30)→5/13アメリカ駆逐艦により撃沈
・ U864 ベルゲン (1945/2/??) → 北海で撃沈 (1945/2/9)
・ U234 キール(1945/3/24)→1945/5/13アメリカ海軍に投降(同乗の日本海軍技術士官、友永英夫中佐、庄司元三中佐は艦内で自決)

3. イタリア潜水艦4隻
・ Luigi Torelli ボルドー (1943/8/16) →スマトラ島サパン経由→シンガポール (1943/8/30)
・ ほか3隻はすべて撃沈

参考:

http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-igo1.html

日本海軍潜水艦史刊行会編『日本海軍潜水艦史』(1979)拓大図書館に貴重書として所蔵あり
吉村昭『深海の使者』文春文庫(1976)ノンフィクション小説
新延明、佐藤仁志『消えた潜水艦イ52』日本放送出版協会(1997)

このようなわけで、潜水艦による輸送は困難をきわめ、成果もあまりあがらなかった。中立国経由の国際郵便のほうが有効だったということである。

戦争が終わってアメリカからペニシリンが大量に輸入されるようになった。日本のペニシリン開発に関する資料は内藤記念くすり博物館に保存されている。

また、ペニシリン開発に関する最近の歴史研究では、

徳元琴代, 梅澤濱夫とペニシリンの開発について, 日本科学史学会第56回年会, 2009年.
徳元琴代, Jhon. C. Sheehan とペニシリン研究について, 日本科学史学会第55回年会, 2008年.

がある。というか、徳元さんがペニシリン開発について研究しているということくらいしか知らない。

「第三の男」のような事件が世界のどこかで起きたのかどうか知らないが、信頼できない医薬品の宣伝が迷惑メールやトラックバックスパムというかたちでどんどん送りつけられている。どんな経済的カラクリがあるのか気になるところではあるが、追跡するほど暇でもないので、ことごとく削除している。

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羽仁五郎は無神論者でありながら、キリスト教式の結婚式を挙げている。うたがうひとは羽仁説子『妻のこころ』(岩波新書, 1979年)をみよ。たしかに現在の自由学園明日館で式を挙げているのがわかるであろう。同時に、無神論者である彼が聖書に親しんでいたということにも言及されている。

羽仁五郎は冷静に議論したい人物であるが、まずは東京学芸大学の鷲山恭彦学長が、かつて附属図書館長に就任した時の文章を読んでみたい。国立国会図書館法の前文に触れて書き出されているのだが、国立国会図書館の本館を訪ねるとわかるように、蔵書受渡カウンターの上に、日本語の「真理がわれらを自由にする」と、ギリシャ語の「Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ」が並んで刻まれおり、日本語文は国立国会図書館法前文の冒頭にある言葉である。

12年前、南西ドイツの町、スイスとの国境近くにあるフライブルク大学で4ヵ月の研究生活を送ったとき、図書館のベランダに出ると通りを隔てた大学の赤みがかった建物の壁に「DIE WAHRHEIT WIRD EUCH FREI MACHEN」(真理は汝等を自由にする)と刻んであるのを見つけた。ははん、ドイツ留学の経験をもつ羽仁さんはこれに触発されたのだな、と思った。(鷲山恭彦, 「真理は我らを結びつける」-図書館長の就任挨拶にかえて-, 東京学芸大学附属図書館報, Vol.28, No.1, 1999年6月.)

たしかにそうだったのであろう。そして、国立国会図書館のウェブサイトにおいても真理がわれらを自由にするというページを設けて、次のごとく自らの使命として述べている。

この言葉は、法案の起草に参画した羽仁議員がドイツ留学中に見た大学の銘文に由来し、その銘文は、新約聖書の「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース ヨハネによる福音書8:32)に由来するといわれています。

ここで真理という言葉のニュアンスが、聖書におけるものとはやや異なっていることに気をつけたい。日本国憲法のもとで設立された国立国会図書館は宗教との関係をもたないはずであるが、新約聖書における真理とはキリスト教的な意味を当然もっている。国立国会図書館法前文と新約聖書の言葉の上での違いは、真理によって自由になるのが「われら」であるのか「あなたたち(訳によっては「汝等」)」であるのかという点にすぎず、国会図書館内に刻まれたギリシャ語による表現では新約聖書原文との違いがまったくない

羽仁五郎がドイツに留学したのは1922年である。それに先んじて1921年には羽仁もと子・吉一夫妻によって自由学園は設立されていたし、羽仁五郎もそのことを知っていたように思われる(ちなみに、黒柳徹子の母校である自由ヶ丘学園、後のトモエ学園とは無関係である)。自由学園という校名の由来は、まさに議論しているヨハネによる福音書8:32にほかならない。羽仁五郎の留学前後における意識の変化はあったのか、あったとすればどのようなものだったのか。この点を追究することが一つの課題となるであろう。

さて、ドイツの大学において聖書のこの言葉がどのように解釈され、碑文に刻まれるようにまでなったのかということは、ドイツにおける学問の理念と密接な関係をもつことを意味するであろう。この碑文がいつ、どのようにして刻まれたのかを調べる必要があるうえ、神学的にきちんとした議論をここで展開することは私には難しいが、宗教と学問との関係を無視することは科学社会学的な観点からできない(たとえばマートンのテーゼ)。ひとまず、手元にある新共同訳の聖書で、この言葉の前後を引用しておこう。

ヨハネによる福音書 8章

31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今まで誰かの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかなが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。38わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」(新共同訳聖書, 日本聖書協会, 1987, 1988年)

この後、19章でイエスはついに十字架にかけられて処刑される。そこへいたるまでのイエスの言行が記されているが、この部分を読むだけでも平穏な状況とは考えられないものである。

ところで、そのフライブルク大学のウェブサイトで、このような文書を見つけた。もう一つの課題を解決するための資料になりそうな文書である。

Gerhard Kiser, Die Wahrheit wird euch frei machen: Die Freiburger Universitätsdevise – ein Glaubenswort als Provokation der Wissenschaft

いずれにしても、この時代のドイツにおいて、キリスト教を信仰することと科学の研究が矛盾するものではなく、神が創造した世界を探求する、ということに意義を見出すことに不自然さはなかったといえよう。

羽仁五郎に話を戻すと、彼は留学中にドイツ共産党の機関紙Die Rote Fahneを購読していたことを自著で明らかにしているが、1931年にロンドンで開催された第二回国際科学史学会における Болис М. Гессен の講演(秋間実、稲葉守、小林武信、渋谷一夫訳『ニュートン力学の形成 「プリンキピア」の社会的経済的根源』法政大学出版局, 1986年)のはるか前、1924年に日本へ帰ってきた。そして1926年、前述の『妻のこころ』冒頭で描かれている結婚式を挙げたのである。羽仁五郎の思想について研究の余地は十分にあるが、彼の唯物論(あるいはマルクス主義)とキリスト教に対する考え方は、微妙なバランスを保ちつづけたのではないだろうか。

以上、日本で初めて大学における技術史教育に取り組んだ東工大の山崎俊雄名誉教授(故人)の蔵書の中に、『中井正一全集』全4巻, 美術出版社, 1964-1981年というものがあるのに気づいて考えをめぐらせた次第。中井正一は国立国会図書館の初代副館長をつとめた美学者である。

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Electrification of Russia, 1880-1926

English follows.

前期、火曜日の午後は東京学芸大学での授業があって火ゼミには出席できないのだが、2009年4~7月までの火ゼミの予定を読みなおしてみたら、

6月2日 Jonathan Coopersmith (Texas A&M University) “The Rise and Fall of Faxing: Lessons of Decline”

と書かれている。Jonathan Coopersmith さんとお会いしたのは1990年代の前半、私に直接連絡があって、火ゼミに招いて発表していただくように動いて、火ゼミが終わってから百年記念館で記念写真を撮影し、大岡山の居酒屋へ出かけて行ったような記憶がある。

今週の発表を聴くことはできなかったがファクシミリの歴史のようで、私としても関心のあるところ。以前はロシアの電化について研究書を出版されていた(表紙写真)。

Jonathan Coopersmith, The Electrification of Russia, 1880-1926, Cornell University Press, 1992.

書名にあるように、ロシアの十月革命前からネップ期あたりまでの技術史である。ここで詳しい書評をするつもりはないが、私としてはこの時代が電気工学の形成期でもあるということに着目したい。Charles P. Steinmetz が Lenin にロシアの電化に協力を申し出る手紙を出し、Lenin から謝意を込めた返書を受け取ったということが知られているが、もっと古い時代においては電気工学という体系的な科学は存在しなかったのである。

3月30日には、IEEE Student Branch at Tokyo Institute of Technology主催の講演も開かれていたようだ。

Electrification of Russia and Formation of Electrical Engineering

These days, I cannot attend Kazemi (Seminar on History of Science and Technology almost every Tuesday at Tokyo Institute of Technology) since my classes at Tokyo Gakugei University. I awared a topic in Kazemi schedule in April to July, 2009.

June 2, Jonathan Coopersmith (Texas A & M University) “The Rise and Fall of Faxing: Lessons of Decline”

I had met Prof. Jonathan Coopersmith in early 1990s. He contacted me directly and I arranged his session in Kazemi. After the session, taked pictures in the Centennial Hall, then we have a banquet at a pub in Ookayama.

I cannot attend the session in this week on history of the fax, but also interesting to me. He had previously published a book on the electrification of Russia.

Jonathan Coopersmith, The Electrification of Russia, 1880-1926, Cornell University Press, 1992.

As the book title, it is an history of technology before the October Revolution to the NEP, New Economy Plan, era. It is difficult to review in detail here, but I wish to focus on the time is the formative period of electrical engineering. As is well known, Charles P. Steinmetz wrote a letter to Lenin to offer assistance the electrification of Russia, and Lenin wrote a thanksful reply. At that time, electrical engineering was established based on complex number, however, electrical engineering as a systematic science does not exist in older age.

On the other hand, IEEE Student Branch at Tokyo Institute of Technology hosted a session on March 30.

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