Archive for the ‘映画’ Category

スティーヴン・ダルドリー監督の愛を読むひと(原題 The Reader,小説の原題と映画のドイツ語版タイトルはDie Vorleser)が劇場公開されている.原作の小説も映画も未見なので,予告編でわかること以上のことは書けない.単純な恋愛映画ではなく,深刻な過去と向き合わなければならない人間を描いているようである.

ドイツの過去といえば,ナチス政権下の「国家反逆罪」 名誉回復へ新法 来月成立 左翼党、与党動かす(2009年7月4日)というニュース.国内ではほかに同様の記事が見つからなかった.

ナチス政権のもとで行われた裁判で,ヒトラー暗殺計画に加担したことによって有罪とされた人の中にディートリッヒ・ボンヘッファーがいた.1945年4月9日,ドイツ降伏の直前に処刑された神学者・牧師である.彼が直接の「実行犯」になるはずではなく,対外的な連絡活動などを担当したのであるが,組織の一員であったことは事実である.聖職者が暗殺というのは考えにくいことであるが,彼の倫理観では限界状況のもとで自ら罪を負ってでもヒトラーの独裁を放置することはできないのであった.

ボンヘッファーの名誉が回復されていない,つまり判決は現在でも有効であるという話は何年か前に聞いたことがある.これでようやく名誉回復となるのであろうか.

追記(2009年7月7日)
海外での報道記事.

APによって配信された記事,たとえば
Germany to overturn Nazi treason convictions
(1 Jan 2009) には,

In 1996, for example, Berlin justice officials formally exonerated the Rev. Dietrich Bonhoeffer, who was hanged in Bavaria in April 1945 for his role in plotting the attempted assassination of Hitler. The ruling also covered other resistance figures, including Adm. Wilhelm Canaris, who was sentenced and hanged with Bonhoeffer.

と書かれている.しかし,「本当か?」という気がする.

たしかに,After 50 Years, German Court Exonerates Anti-Hitler Pastor (16 Aug 1996) という記事はあるのだが,これが事実として a Berlin court とはベルリンのどの裁判所を指すのかはっきりせず,同じことを報じたドイツ語による記事が見あたらない.また,仮にこの記事に書かれていることが事実としても,ボンヘッファーの名誉回復がいまだなされておらず,その議論のために日本ボンヘッファー研究会がドイツからの訪問者とを迎えたいう話を聞いたのは2000年代に入ってからのことである.

ドイツ発の記事.Endlich fällt das ‘letzte Tabu’ bei der Aufarbeitung der NS-Geschichte (2 Jul 2009) はこの件に関する政党間の関係を,当事者である左翼党の立場で論じている.

もうひとつ,Will Germany Finally Rehabilitate Nazi-Era ‘Traitors’? (28 Jan 2009) は「ワルキューレ」に言及している.ボンヘッファーも「ワルキューレ」の関係者だったのである.

追記(2009年7月8日)
少しよく調べて,1996年のボンヘッファー名誉回復に関するドイツ語の報道記事を見つけた.Dietrich Bonhoeffer ist rehabilitiert (7 Aug 1996) によると,ベルリン地方裁判所による1945年の判決撤回という内容.

もうひとつ,Preußische Nachhilfe für Bayerns Justiz (8 Aug 1996) には次のような記述がある.

Das Urteil sei bereits durch das bayerische Gesetz Nr. 21 vom Mai 1946 aufgehoben gewesen.

すなわち,1945年の判決はバイエルンの裁判所(1946年5月の21号判決)ですでに取り消されているとも書かれている.

これ以上は公文書を調べないとわからないように思えてきた.

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泳ぐ宇宙飛行士のつづき.

ガガーリンについては,とてつもなくよく調べている人がいる.「地球は青かった」という言葉についてはとくに丹念に調べられている.

日本人宇宙飛行士による有名な言葉として,秋山豊寛による有名な言葉があげられるのではないだろうか.TBSという民間放送局の社内で選抜されて宇宙飛行士となり,ソユーズTM-11でミール宇宙ステーションへ移乗して宇宙滞在,先にドッキングしていたソユーズTM-10で帰還.地球へのテレビ中継が始まって第一声が,

これ,本番ですか?

である.ジャーナリストらしく考えられたユーモアともとれるが,本心だったのかもしれない.彼はTBSを退職して農業を営むようになったが,宇宙飛行士としての自覚をもったまま地上で活動を続けているようにみえる.

この際なので,秋山豊寛が日本人初の宇宙飛行士であるかどうかということについて見解が分かれているようなので整理しておく.秋山豊寛は日本人として最初に宇宙飛行をしたが,それは宇宙船の「乗客」としてであって宇宙飛行士としてではないという見解について.彼は星の街で正規の宇宙飛行士 (космонавт) として正規の訓練コースを修了して宇宙船に搭乗したので,日本人初の宇宙飛行士ということに間違いはない.それよりも前に,宇宙開発事業団(現在は組織統合されてJAXA)の毛利衛向井千秋土井隆雄がNASAの宇宙飛行士(あるいはミッションスペシャリスト)の有資格者になってスペースシャトルに搭乗する予定であったが,チャレンジャー号の爆発事故によりスペースシャトル計画自体が大幅に遅れ,結果として最初に宇宙飛行をした日本人宇宙飛行士は秋山豊寛ということでおしまい.

それから,ガガーリンは地球を見ていないという説があるらしい件.このような回答をした人がいるので,それを支持する.

この流言のきっかけは、2000年3月にNHKが日本国内に放送したアメリカ製作のドキュメンタリーです。… ボストークには光学窓があるのでガガーリンは地球の蒼さが見えたでしょう。(回答者:abyssinian)

この番組は見ていないが,たしかに窓はあって地球を視覚でとらえることができたはずである.ガガーリンが「神はいなかった」と言ったとか言わなかったとかいう話に興味はないのだが,アポロ15号で創世記の石 (Genesis Rock) と呼ばれる鉱物を採集してきたジェームズ・アーウィンはキリスト教の聖職者になった.

前のエントリでNHKのドラマふたつのスピカのキャストが若いと書いたが,ふりかえってみればガガーリンが宇宙を飛んだとき,彼は27歳.訓練機による墜落事故で死亡したのは34歳のときである.若い.

「無限のかなたへ」(日本語吹き替え:所ジョージ)という台詞で有名なトイ・ストーリーのバズ・ライトイヤーには,モデルとなる人物が存在する.月面に立った二人目の地球人,バズ・オルドリンである(写真提供:NASA).
Buzz Aldrin on the Moon

オルドリンのウェブサイトにあるFAQでは,

Did Buzz Aldrin inspire the Disney character Buzz Lightyear?

という問いに対して明確に “Yes” と答えている.ともあれ,バズ・オルドリンとバズ・ライトイヤーは良好な関係にあるらしい.

バズ・ライトイヤーは「飛んでいない,落ちているだけだ」とウッディに言われたりしているが,自分のことをスペースレンジャーの一員だと信じていた.しかし,自分がおもちゃであることを知って落ち込む.しかし,なかなかどうして活躍し,独立したテレビシリーズスペース・レンジャー バズ・ライトイヤーの主役をつとめたり,国際宇宙ステーションへの飛行を実現したりしている.

ところでバズ・オルドリンは,アポロ11号の月面着陸によって世界的な注目を集めたが,あわせてうつ病,アルコール依存症,離婚という苦労を味わうこととなった(Robert Epstein, Buzz Aldrin: Down to Earth, Psychology Today, 2001.).今はそうしたことを乗り越えて幸せなのではないかという気がする.

前述のチャレンジャー号 (STS-51-L) 爆発事故は,順調であるかのように見える打ち上げからこの動画のように突然の爆発で,宇宙飛行士7名全員死亡という衝撃的なものであった.この事故などをきっかけに,アメリカの大学工学系学部で Engineering Ethics の授業がおこなわれるようになった.また,大江健三郎にとっておそらく初めてのSF小説治療塔(岩波書店,1990,講談社文庫,2008)にもこの事故に関する描写がある.

ちょっとだけ,日本人宇宙飛行士について「それから」ではなく「それまで」を見ておこう.山崎直子「宇宙戦艦ヤマト」のアニメに影響を受け,大きくなったら 「先生」や「ディズニーランドのお姉さん」になりたいと思っていたらしいが,「きっかけはチャレンジャー号の事故」とも書かれている.星出彰彦は,「銀河鉄道999 」,「宇宙戦艦ヤマト」,「スタートレック」などを見て宇宙にあこがれていたという.古川聡小さいころは「ウルトラセブン」になりたいと本気で思っていた(注:「あこがれはウルトラマン」という見出しは誤りである)とまでいう.野口聡一は,宇宙を舞台にしたアニメなどは見ていたが,それだけではまだ宇宙飛行士になりたいと思っておらず,高校生の時にスペースシャトルの初飛行を見て「これからは普通の技術者でも宇宙で活躍できる」と考えたそうである.オタクだらけのようにも見えるが,子どもが普通見ていそうなものを見ているだけだと思う.

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遅くなってしまったが誕生日のお祝いである。ひし美ゆり子『セブンセブンセブン わたしの恋人ウルトラセブン』

6月10日は女優、ひし美ゆり子(かつては菱見百合子)さんの誕生日である。円谷プロダクション作品、「ウルトラセブン」ウルトラ警備隊・友里アンヌ隊員の役で私の心は奪われた。設定では20歳の医師、地球防衛軍のメディカルセンター勤務、ウルトラ警備隊隊員。20歳で医師というのは現在の制度ではあり得ないが、未来社会の超エリート女性だからそれもアリなのである。制度が整っていない時代、森林太郎(鴎外)は現在の東大医学部を19歳で卒業したが、それは年齢詐称によるものであった。

「ウルトラセブン」が公開されたのは1967年のことであった。私は生れていたがあまりにも幼く、再放送で観た記憶しかない。

ずっと後になって直接お会いする機会があった。さすが本物の女優であり、雰囲気が違う。時はたっても、しぐさの端々に「アンヌ」の面影があらわれていた。

私が「ウルトラセブン」にはまっていたのは幼稚園時代のことであるが、大人になってから友人がレーザーディスクで全巻そろえて、つられて全部観てしまった。それから再燃した。もう、オタクと呼ばれようと何と呼ばれようとかまわなくなった。

川崎市にあるザ・グリソムギャングというシネマバーで記念上映会が開かれたらしいが、残念ながらその場へは行けなかった。

ともあれ、これからも元気で活躍されることを願いつつ、お祝いを申し上げたい。

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前の同郷の著名人というエントリは、実はここへの伏線だった。

日付は変わったが、六本木の映画館で「おっぱいバレー」を観てきた。上映館が少なくなっているので、足を運ぶなら今のうちだと思い、六本木へ出かけたというわけである。原作の小説は読んでいない。

余談であるが、ロケ地の北九州にある小倉コロナワールドではさすがに7月まで上映されている。昨年の夏に弟と甥とともに「インディ・ジョーンズ」を観てきたのだが、上映室が10もある大規模さに驚いた。JR貨物の浜小倉駅跡地に建てられている。

予備知識として知っていたのは、以下のようなことである。

  1. 実話がもとになっているらしい。
  2. 時代設定は1979年、舞台は福岡県北九州市あたりらしい。
  3. 主役とされる女性教師、寺嶋美香子は当時23歳で、主演の綾瀬はるかと同年齢らしい。
  4. 若い女性に人気がある感動作らしい。

私としては 2. が気になっていた。世代的・地域的な当事者であったともいえるからである。バレーボール部員になったことはなかったし、女性の教員が顧問をつとめる部活動にかかわったこともないが、まさに同時代である。

映画館では定員52席のうち、客席の埋まり具合は半分に少し足りない程度。男女比は女性が若干多いくらい。

ところで、2008年の北京オリンピック、バレーボールの試合を見ていて初めて知ったのは、現在のルールでは15点マッチではないということだった。デュースになってサーブ権が移動するばかりの延々と続く試合を避ける方向で、ルール改正が行われたようである。

さて、この映画のクレジットに「バレーボール監修」として大林素子の名前が出ている。妥当な選択と思われるが、個人的には、イタリアから中田久美に帰ってきてほしかったような気もする(個人的な趣味ではない、たぶん。中田は映画に登場するバレーボール部員とほぼ同じ年代の生まれだからであり、大林は少し年下の当時小学生だったのではないかと思われる)。時代として少し前の1977年、バレーボールとは無関係だがモントリオールオリンピックでルーマニアのナディア・コマネチが体操で奇跡的な10点を連発して「白い妖精」と呼ばれていた。体操はこの映画と無関係だが、顧問の先生のおっぱいを見たがるような中学生のことである、レオタード姿に関心を示さないはずはない。しかしこれ以上はネタバレになるので書かない。

映画の撮影にあたっては北九州フィルムコミッションの協力を受けていて、中学生のエキストラなどは市内の中学校から募られていたようである。

私が2004年に撮影した Photo 2004: Kokura Aug 8th の中で、工業地帯の写真のうち、ほぼ同じ煙突のある場所を標高の高いところから撮影されているというシーンが作中に何度かあった。筑豊電鉄は、西日本鉄道北九州線が廃止されたので、雰囲気を出せる路線として起用されたらしい。

試合で勝てば胸を見せるという約束をして部員を奮起させる、というのは教育者の行動としてはたしかに問題がある。しかし彼女には、努力をする経験をしてほしいという希望もあったわけである。この矛盾がどのような結末につながるのか、さすがにここでは書けないが、重要なところである。

それにしても、1979年当時23歳の教師が現在どうしているのか興味はある。お目にかかっておっぱいを拝見しなければならないかである(うそ)。しかし、教員を続けているのであれば定年にはなっていないはずである。

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私の生まれは福岡県北九州市小倉区(現在の小倉北区)である。JR小倉駅から西に向かってバスで20分程度のところで育った。ものすごくいい加減な地図であるが、九州における位置関係はだいたいこんなところである。念のためにいえば、小倉は「おぐら」とは読まず、「こくら」と読む。
おおざっぱな九州の地図

小倉出身の著名人として何人かあげておこう。個人としては、松本清張山本リンダ草刈正雄松本零士といったところだろうか。本当は東京出身だが、私と同じ小学校に在学していた土井隆雄宇宙飛行士もいる。架空の人物として「無法松」こと富島松五郎が知られている。法人として、ゼンリンTOTOはよく知られているであろう。

現在は福岡県北九州市であるが、廃藩置県直後において、小倉と門司は小倉県、八幡と戸畑と若松は福岡県に属した。当時の小倉県には、福澤諭吉の出身地である現在の大分県中津も含まれる。江戸時代の小倉は初代から三代まで細川氏が藩主であり、四代以降は小笠原氏である。幕末における長州征伐においては、関門海峡の向こうから長州を攻撃する江戸幕府の拠点となった。また明治から終戦までは陸軍の九州における重要拠点であり、森林太郎(鴎外)が小倉に赴任したり、(結局は長崎に投下された)原子爆弾の攻撃目標になったりもした。

小倉の周辺に目を向けると、日本近現代史においてよく知られているのは、八幡(「はちまん」とは読まない。かつては「やわた」と読まれていたこともあるようだが、現在の行政では「やはた」と読まれている。政治学者・政治家の舛添要一は福岡県立八幡=やはた=高等学校出身)で1901年創業の八幡製鉄所がある。同じ「鉄」でも、国鉄小倉工場(現在のJR九州小倉工場)、また架空の学校として映画「おっぱいバレー」の舞台となった戸畑第三中学校。この映画は実話をもとにしたストーリーだということだが、学校名は架空のものにするとしても本当に戸畑で起きた話なのかどうか不明であるし未見である。

福岡あるいは博多出身の人はあまりにも多いので省略する。上の地図に「大川市」とあるが、ここが「のだめカンタービレ」の野田恵(のだめ)の出身地である。アニメーションの第一シーズンは時折飛ばしてだいたい観たが、最終回で誰かさんが博多駅からタクシーで大川市へ向かうのは無謀である。博多駅の駅員に乗り継ぎの問い合わせをすればよかったのにと思う。

結論? そんなものはない。ただの自己紹介のようなものである。

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キャロル・リード監督、オーソン・ウェルズ主演の映画「第三の男(The Third Man)」は、戦後間もないヴィーンで、薄められた粗悪なペニシリンが出回るというところから話が始まる。チターというギターのような弦楽器による主題曲は、何年か前にビールのCMで使われていたように思う。

角田房子『碧素・日本ペニシリン物語』日本におけるペニシリン開発の歴史をまとめた著作がある。角田房子『碧素・日本ペニシリン物語』(新潮社, 1978年)である。

海外の動向(Manfred Kiese, Chemotherapie mit antibakteriellen Stoffen aus niederen Pilzen und Bakterien, Klinische Wochenschrift, 22 Jg., Nr. 32/33, 7 Aug. 1943. いわゆる「キーゼ総説」)に触発された日本は、政府主導のペニシリン委員会を組織し、陸軍軍医学校を中心に、民間企業(製薬会社に限らず、後に製薬に取り組むようになった食品メーカーなども含まれる)の協力も得てペニシリンの独自開発にこぎつけたが、良質のものを大量生産することができないうちに終戦を迎えた、というようなことが書かれている。

日本の戦時研究を遂行するためには、海外の研究動向をなんとかして知りたいという事情があった。実際どうであったのかを角田房子は当事者であった犬丸秀雄(当時文部省科学局・ベルリン駐在)に取材して真相を突き止めている。要約すれば次のとおりである。

  • 独ソ戦が始まるまで、日本とドイツの間はシベリア鉄道で結ばれており、学術雑誌の交換も可能だった。
  • 独ソ戦開戦にともない、日本とドイツの間で学術雑誌を含む物資の交換は、はじめ民間の船舶に偽装したドイツ海軍の輸送艦、そしてUボートと伊号潜水艦の大西洋・インド洋経由での往来があった。しかし潜水艦による輸送は危険で成功率は低かった。
  • 日本がドイツの学術雑誌を入手する手段としては、まずはベルリンの日本大使館から目録を郵送することから始まり、ベルリンからスイスの日本公使館を経由して雑誌そのものを郵送するようになった(速報事業)。

速報事業については私も少し触れてみたことがある。

田中克範, 日本におけるアスカニア式自動制御装置とヤンソン製作所, サジアトーレ, No. 35, 2005年.

自動制御装置とペニシリンになんの関係があるのかといえば、ない。ここでの接点は「速報事業」のみである。ただ、私の論考では、角田房子が犬丸秀雄本人から受け取ったという論文「学術行政の一環としての速報事業」(角田房子の著作21頁ではどこに掲載されたものなのかわからない)を特定して参照している。

潜水艦による輸送の状況はどうだったのか。私のファイルサーバにメモが残っているので、あまり大したものではないがここに公表しておく。ちなみにロリアンというのはドイツに占領されていたフランスの港である。

第二次大戦中の日本・同盟国間の潜水艦輸送路(メモ)
2005/2/12

1. 日本潜水艦5隻
・ 伊30 ペナン (1942/4/20) →ロリアン (1942/8/5) 同 (1942/8/22) →ペナン(1942/10/8)→シンガポール港外で触雷沈没 (1943/10/13) 積載物の多くは潜水作業で回収 [大海指第77号]
・ 伊29 ペナン (1943/4/5) → インド洋上 (1943/4/28) U-180に江見哲四郎中佐・友永英夫技術少佐を移乗させ、物資の交換 → ペナン (1943/5/13) [大海指第205号]
・ 伊8 呉 (1943/6/1) → ペナン経由 → ドイツ占領下のフランスBrest (1943/8/31) 同 (1943/10/5) → シンガポール (1943/12/5) → 呉 (1943/12/21) [大海指第232号]
・ 伊34 呉 (1943/9/13) → ペナン入港直前にイギリス軍潜水艦トラウスの攻撃を受けて沈没 (1943/11/11) [大海指第273号]
・ 伊29 呉 (1943/11/5) → シンガポール経由 → インド洋上 (1943/12/23) ドイツ油槽船より給油 → ロリアン (1944/3/11) 同 (1944/4/16) → シンガポール (1944/7/14着、1944/7/22発) → バシー海峡にてアメリカ軍潜水艦Sawfishの攻撃を受け沈没 (1944/7/26) [大海指第273号:伊34に続いて出発]
・ 伊52 呉 (1944/3/10) → シンガポール経由 → 8/1ロリアン到着予定のところ6/6ノルマンディ上陸作戦によって入港先の確保が問題となってU530と会合、6/24連合軍による航空機からの攻撃で沈没) [大海指第322号]

2. ドイツ潜水艦4隻
・ U511(さつき1号・呂500) ロリアン(1943/5/11)→ペナン経由→呉 (1943/8/7)
・ U1224(さつき2号・呂501)キール (1944/3/30)→5/13アメリカ駆逐艦により撃沈
・ U864 ベルゲン (1945/2/??) → 北海で撃沈 (1945/2/9)
・ U234 キール(1945/3/24)→1945/5/13アメリカ海軍に投降(同乗の日本海軍技術士官、友永英夫中佐、庄司元三中佐は艦内で自決)

3. イタリア潜水艦4隻
・ Luigi Torelli ボルドー (1943/8/16) →スマトラ島サパン経由→シンガポール (1943/8/30)
・ ほか3隻はすべて撃沈

参考:

http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-igo1.html

日本海軍潜水艦史刊行会編『日本海軍潜水艦史』(1979)拓大図書館に貴重書として所蔵あり
吉村昭『深海の使者』文春文庫(1976)ノンフィクション小説
新延明、佐藤仁志『消えた潜水艦イ52』日本放送出版協会(1997)

このようなわけで、潜水艦による輸送は困難をきわめ、成果もあまりあがらなかった。中立国経由の国際郵便のほうが有効だったということである。

戦争が終わってアメリカからペニシリンが大量に輸入されるようになった。日本のペニシリン開発に関する資料は内藤記念くすり博物館に保存されている。

また、ペニシリン開発に関する最近の歴史研究では、

徳元琴代, 梅澤濱夫とペニシリンの開発について, 日本科学史学会第56回年会, 2009年.
徳元琴代, Jhon. C. Sheehan とペニシリン研究について, 日本科学史学会第55回年会, 2008年.

がある。というか、徳元さんがペニシリン開発について研究しているということくらいしか知らない。

「第三の男」のような事件が世界のどこかで起きたのかどうか知らないが、信頼できない医薬品の宣伝が迷惑メールやトラックバックスパムというかたちでどんどん送りつけられている。どんな経済的カラクリがあるのか気になるところではあるが、追跡するほど暇でもないので、ことごとく削除している。

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岩波映画の羽仁進監督の「不良少年」(1961年, 新東宝配給, 90分白黒作品)は、著名であるにもかかわらず目にする機会は少ない。私は、深夜に放送されたものなのか、ケーブルテレビによる放送なのかよく憶えていないが、テレビの前で釘づけになって観たことがある。ビデオ録画もしたはずだが、テープはどこにあるのか自分でも把握していない。そのうち出てくると思う。

いずれにしても、はじめからしまいまで観たのである。映像では冒頭に、この映画がフィクションであって内容については監督に責任があることと、撮影に協力した少年に対する謝意が文字で示される。少年が逮捕され、少年院で生活する様子が描かれている。結末を明かしたとたんにつまらなくなるようなことはないが、プロセスを通じて緊張させられる作品である。

実を言えば、私は岩波映画にあまりなじみがない。このエントリを書く際にちょっと調べて田原総一朗が岩波映画出身だと初めて知ったほどである。

それはさておき、この映画の音楽を武満徹が担当していることはおそらく重要であろう。劇中で用いられている歌は有名な「〇と△の歌」である。今日では小室等がギターを弾きながら歌い、また合唱でもよく歌われている。映画の中でこの歌はごく控えめに、少年院の静かなグラウンドを映したシーンにおいて、うっかりすれば聞き逃してしまいそうなアカペラで歌われている。小室等の歌い方もそれによく似ているように思う。

合唱では、ややメリハリの利いた歌い方がなされるようである。たとえば2008年の新居浜混声合唱団定期演奏会のように。

ところで武満徹とは誰かと訊ねられるかもしれないが、国際的に著名な作曲家である。フィクションながら現実の少年に取材したドキュメンタリー風の「不良少年」に対して、まったく空想的な世界を描いた安部公房原作、勅使河原宏監督1964年の作品「砂の女」(カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞)の音楽も武満徹が担当した(主演の岸田今日子は、羽仁進と同様に自由学園高等科卒業生である)。

武満徹は65歳の癌による死をもって、大江健三郎にさらなる小説執筆の決意をうながすことになった。

さて、どのように話を羽仁進に戻すか。いや、ここに述べてきたとおりであるから、本当は話を戻すことにはあまり意味がないとも思う。ただ、武満徹の音楽が大きな影響力を持っていたことには言及しておかないわけにはいかないと思われるのである。ただ、武満徹の作品の歌詞の最後の部分だけを示しておきたい。バラライカは三角だぜ!

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工学部の学生だったころ、第三外国語としてロシア語を履修した。第二外国語はドイツ語で、初級程度は必修なのだが、第三外国語は完全な選択科目だった。

履修の動機は、図書館の書庫にあったキリル文字の雑誌が置かれた場所に立ったとき、文字さえ読むことができず、目の前にある膨大な情報にアクセスできないもどかしさを感じたからだった。

ロシア語を履修する学生は少なく、授業中に怠けることは不可能であった。担当は北九大の戸辺又方(とべ ゆうほう)教授で、教科書は先生自身による『1年生のロシア語 = Мы читаем и говорим по-русски』(白水社, 2000年)であった。履修した当時1年生ではなかったのだが、ロシア語を学ぶものとしては1年生である。出版年からみて私はこの教科書を使ってロシア語を学んだ最初の学生のひとりだと思われる。調べてみると、現在いくつもの大学のシラバスに教科書として指定されているようである。

最初の授業で印象に残っている言葉がある。「ソ連語という言語はありません」というものだった。当時はまだソビエト連邦が存在していたのだが、ソ連における公用語としてのロシア語であって、「ソ連語」という言語が存在するわけではないということである。たしかにそのとおりである。

文字を覚えるのに時間はかからなかった。ギリシャ文字との類似点が多いからである。ギリシャ語を習得していたわけではないが、数式を使うのにギリシャ文字を使うことが多いからである。大学院入試でドイツ語の問題に白紙回答をしたという益川敏英教授も、さすがに数式の中でギリシャ文字は使うであろう。

名詞の性や格変化はドイツ語である程度経験したことに改めて取り組むといった印象があった。苦労はしたが、むしろ楽しかった。

さて、習いたてのロシア語に関する知識を何に使ったか。最初はロシア語からの翻訳を楽に読めるようになったということである。トルストイやドストエフスキーのようなロシアの文豪の作品をかじろうとして、人名に翻弄されて挫折した高校生や大学生は多いのではないだろうか。ロシアではひとりの人物にファーストネーム、愛称、敬称とさまざまな呼び名があって場面により使い分けられるし、同じ家族でも男性と女性で語尾が異なる(固有名詞にも性がある)のだが、それがわかっていないとストーリーについていけない。

ロシア語をひととおり学んで最初に読んだのが、ワロンツォーワ著, 三橋重男訳『コワレフスカヤの生涯-孤独な愛に生きる女流数学者』(東京図書, 1975年)だった。ちょうど科学史や技術史に強い関心を抱くようになっていたころのことだった。

そしてソ連は崩壊した。勉強のためにモスクワで発行されている週刊誌を年間購読していたのだが、発行が一時的に止まって届かなくなった。購読料は前払いだったので少しやきもきしたが、やがて発行は再開された。雑誌そのものは廃棄してしまったが、ソ連崩壊を境に紙質が劣悪なものになったような記憶がある。

Солярис数年たって、アメリカからVHSのビデオをインターネットで購入するようになった。英語字幕のついたタルコフスキー監督の映画を何本も買い込んだ。そんなときに大江健三郎の小説『静かな生活』(講談社, 1990年)とめぐりあった。この中にタルコフスキーの「ストーカー (Сталкер)」をとりあげた章がある(念のために書いておくと、邦題は原作をそのままカタカナにした「ストーカー」であり、映画の中ではロシア語的に「スタルケル」と呼ばれているが、他人につきまとうストーカーとはまったく関係がない)。大江健三郎自身がモデルになっていると思われる、主人公の父親が、キリル文字で「Сталкер」と書いてみせる描写がある。大江健三郎はドストエフスキーを読むためにロシア語を学んだのだろうかと思った。この小説は伊丹十三監督によって映画化されているが、劇中劇を避けたためであろうか、この章は映像になっていない。

タルコフスキー監督の「惑星ソラリス (Солярис)」はアメリカで発売されたVHSのテープを持っていたが、ロシアでDVDが発売されるとすぐに取り寄せた。タルコフスキーも、原作者であるスタニスワフ・レムもこの映画はなかったことにしたいほどの作品だったようだが、少なくとも私は気に入っている。スティーブン・ソダーバーグ監督、ジョージ・クルーニー主演でリメイクされた「ソラリス」よりも見ごたえがあると思う。このDVDには多言語の字幕が付いているが、日本語字幕は過去のものと訳が少し異なっており、たとえば主人公クリスの親友ギバリャンは「物理学者」とされていたものが「生理学者」に訂正されていたりする。

それにしても、QWERTYと似ても似つかないロシア語のキーボード配列にはいまだに慣れておらず、たどたどしくタイピングしている。キートップに貼るシールも市販されているが、夏の暑さでべとべとになって、キーボードに触れること自体がひどく不快になるという経験をしてから、わからないときには横に置いた配列図を見てタイプするようにしている。

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