Archive for the ‘科学史’ Category

何度か名前を出した羽仁五郎は、羽仁進『自由学園物語』(講談社, 1984年)に書かれているように、現在は東久留米市にある学園町で戦前からしばらくのあいだ過ごした。羽仁の自宅に集まった研究者の中には、原稿を暖炉で焼いてしまえと言われた者もいれば、ジーメンスの電気ストーブが赤外線を放っているのに、寒くてたまらないと言っていた者もいる。最寄駅は現在のひばりが丘駅(1959年4月30日までは田無町駅)である。

羽仁五郎・羽仁進『父が息子に語る歴史講談』(文芸春秋, 1987年)の中で、羽仁進が羽仁五郎に武谷三男がロシア人女性と一緒にいるのを見たと言い、羽仁五郎が知らないの一言ですませる場面があった。ロシア人女性とは、武谷ピニロピのことであろう。武谷三男は、同じ沿線の石神井公園駅の近くに住んでいた。1953年から1969年まで立教大学教授をつとめたが、所属機関のない時期も長く、論文を投稿する際に、所属機関を「トウキョウ、ネリマ」にしたと自嘲的に語ったこともある。

さて、ある物理学者という人物のブログ広重徹の武谷批判というエントリには、次のように書かれている。

広重徹の「科学と歴史」(みすず書房)の中の「科学史の方法」のところを読んでいる。この中で広重徹は武谷三段階論を科学の研究の歴史に基づいたものではなく自然の論理としても科学の歴史としても間違っているといっている。間違っているという言い方はちょっと言い過ぎかもしれないが、武谷三段階論はどうも歴史に即したものではなく、また三つの段階の間の移行の契機がはっきりしないというようなことらしい。
これはまだ印象の段階なのだが、もっときちんと広重の言っていることをつかむようにしなければならないだろう。昔、広重の武谷批判を読んだときにそれなりに納得した気になったものだったが、だが広重は新しいアイディアを出してはいないと思った。

この件に関しては、次のような文献を読んでおくとよいであろう。

  • 植松英穂, 歴史の小経-一人歩きした武谷三段階論-, 日本物理学会誌, 58, 11, 834-836, 2003.
  • 安孫子誠也, 広重徹による武谷三段階論批判, 物理学史ノート, 11, 109-125, 2008.

たしかに武谷三男は日本科学史学会の会員であったこともあるが、現在の日本科学史学会には武谷三段階論を科学史の方法ととらえている会員はほとんどいないであろう。ついでに、些細な点かもしれないが、ひとつ気になったことがある。

科学史をやっていない普通の物理学者には伏見さんにしても南部さんにしても武谷三段階論を方法論というか世界観としてはそれなりに評価していると思う。それは考え方であって、かならずしも科学史の成果とは捉えていないと思う。

伏見さんというのは伏見康治(故人)のことであろうか。伏見康治は科学史に関心が深く、1995年、日本科学史学会の名誉会員に選出されている。

まとめると、武谷三段階論は、物理学の研究者にとってひとつの指針となるものであったが、すべての物理学者が武谷三段階論に依拠して研究活動をしてきたわけではない。また、武谷三段階論は、科学史の方法論とするような性格のものでもなかったのである。

武谷三男については、技術論論争が知られている。これについてはいずれ述べることにしたい。

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キャロル・リード監督、オーソン・ウェルズ主演の映画「第三の男(The Third Man)」は、戦後間もないヴィーンで、薄められた粗悪なペニシリンが出回るというところから話が始まる。チターというギターのような弦楽器による主題曲は、何年か前にビールのCMで使われていたように思う。

角田房子『碧素・日本ペニシリン物語』日本におけるペニシリン開発の歴史をまとめた著作がある。角田房子『碧素・日本ペニシリン物語』(新潮社, 1978年)である。

海外の動向(Manfred Kiese, Chemotherapie mit antibakteriellen Stoffen aus niederen Pilzen und Bakterien, Klinische Wochenschrift, 22 Jg., Nr. 32/33, 7 Aug. 1943. いわゆる「キーゼ総説」)に触発された日本は、政府主導のペニシリン委員会を組織し、陸軍軍医学校を中心に、民間企業(製薬会社に限らず、後に製薬に取り組むようになった食品メーカーなども含まれる)の協力も得てペニシリンの独自開発にこぎつけたが、良質のものを大量生産することができないうちに終戦を迎えた、というようなことが書かれている。

日本の戦時研究を遂行するためには、海外の研究動向をなんとかして知りたいという事情があった。実際どうであったのかを角田房子は当事者であった犬丸秀雄(当時文部省科学局・ベルリン駐在)に取材して真相を突き止めている。要約すれば次のとおりである。

  • 独ソ戦が始まるまで、日本とドイツの間はシベリア鉄道で結ばれており、学術雑誌の交換も可能だった。
  • 独ソ戦開戦にともない、日本とドイツの間で学術雑誌を含む物資の交換は、はじめ民間の船舶に偽装したドイツ海軍の輸送艦、そしてUボートと伊号潜水艦の大西洋・インド洋経由での往来があった。しかし潜水艦による輸送は危険で成功率は低かった。
  • 日本がドイツの学術雑誌を入手する手段としては、まずはベルリンの日本大使館から目録を郵送することから始まり、ベルリンからスイスの日本公使館を経由して雑誌そのものを郵送するようになった(速報事業)。

速報事業については私も少し触れてみたことがある。

田中克範, 日本におけるアスカニア式自動制御装置とヤンソン製作所, サジアトーレ, No. 35, 2005年.

自動制御装置とペニシリンになんの関係があるのかといえば、ない。ここでの接点は「速報事業」のみである。ただ、私の論考では、角田房子が犬丸秀雄本人から受け取ったという論文「学術行政の一環としての速報事業」(角田房子の著作21頁ではどこに掲載されたものなのかわからない)を特定して参照している。

潜水艦による輸送の状況はどうだったのか。私のファイルサーバにメモが残っているので、あまり大したものではないがここに公表しておく。ちなみにロリアンというのはドイツに占領されていたフランスの港である。

第二次大戦中の日本・同盟国間の潜水艦輸送路(メモ)
2005/2/12

1. 日本潜水艦5隻
・ 伊30 ペナン (1942/4/20) →ロリアン (1942/8/5) 同 (1942/8/22) →ペナン(1942/10/8)→シンガポール港外で触雷沈没 (1943/10/13) 積載物の多くは潜水作業で回収 [大海指第77号]
・ 伊29 ペナン (1943/4/5) → インド洋上 (1943/4/28) U-180に江見哲四郎中佐・友永英夫技術少佐を移乗させ、物資の交換 → ペナン (1943/5/13) [大海指第205号]
・ 伊8 呉 (1943/6/1) → ペナン経由 → ドイツ占領下のフランスBrest (1943/8/31) 同 (1943/10/5) → シンガポール (1943/12/5) → 呉 (1943/12/21) [大海指第232号]
・ 伊34 呉 (1943/9/13) → ペナン入港直前にイギリス軍潜水艦トラウスの攻撃を受けて沈没 (1943/11/11) [大海指第273号]
・ 伊29 呉 (1943/11/5) → シンガポール経由 → インド洋上 (1943/12/23) ドイツ油槽船より給油 → ロリアン (1944/3/11) 同 (1944/4/16) → シンガポール (1944/7/14着、1944/7/22発) → バシー海峡にてアメリカ軍潜水艦Sawfishの攻撃を受け沈没 (1944/7/26) [大海指第273号:伊34に続いて出発]
・ 伊52 呉 (1944/3/10) → シンガポール経由 → 8/1ロリアン到着予定のところ6/6ノルマンディ上陸作戦によって入港先の確保が問題となってU530と会合、6/24連合軍による航空機からの攻撃で沈没) [大海指第322号]

2. ドイツ潜水艦4隻
・ U511(さつき1号・呂500) ロリアン(1943/5/11)→ペナン経由→呉 (1943/8/7)
・ U1224(さつき2号・呂501)キール (1944/3/30)→5/13アメリカ駆逐艦により撃沈
・ U864 ベルゲン (1945/2/??) → 北海で撃沈 (1945/2/9)
・ U234 キール(1945/3/24)→1945/5/13アメリカ海軍に投降(同乗の日本海軍技術士官、友永英夫中佐、庄司元三中佐は艦内で自決)

3. イタリア潜水艦4隻
・ Luigi Torelli ボルドー (1943/8/16) →スマトラ島サパン経由→シンガポール (1943/8/30)
・ ほか3隻はすべて撃沈

参考:

http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi-zantei/sensi-igo1.html

日本海軍潜水艦史刊行会編『日本海軍潜水艦史』(1979)拓大図書館に貴重書として所蔵あり
吉村昭『深海の使者』文春文庫(1976)ノンフィクション小説
新延明、佐藤仁志『消えた潜水艦イ52』日本放送出版協会(1997)

このようなわけで、潜水艦による輸送は困難をきわめ、成果もあまりあがらなかった。中立国経由の国際郵便のほうが有効だったということである。

戦争が終わってアメリカからペニシリンが大量に輸入されるようになった。日本のペニシリン開発に関する資料は内藤記念くすり博物館に保存されている。

また、ペニシリン開発に関する最近の歴史研究では、

徳元琴代, 梅澤濱夫とペニシリンの開発について, 日本科学史学会第56回年会, 2009年.
徳元琴代, Jhon. C. Sheehan とペニシリン研究について, 日本科学史学会第55回年会, 2008年.

がある。というか、徳元さんがペニシリン開発について研究しているということくらいしか知らない。

「第三の男」のような事件が世界のどこかで起きたのかどうか知らないが、信頼できない医薬品の宣伝が迷惑メールやトラックバックスパムというかたちでどんどん送りつけられている。どんな経済的カラクリがあるのか気になるところではあるが、追跡するほど暇でもないので、ことごとく削除している。

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先のエントリで、

日本で初めて大学における技術史教育に取り組んだ東工大の山崎俊雄名誉教授(故人)の蔵書の中に、『中井正一全集』全4巻, 美術出版社, 1964-1981年というものがあるのに気づいて考えをめぐらせた次第。

と書いた。

どこでその蔵書を見たのかというと、このエントリでとりあげる科学史技術史研究所 (the Institute for the History of Science and Technology in Tokyo) である。科学史技術史研究所は2009年5月9日に中野のビル内を拠点として設立されたばかりであり、秋にはNPO法人化の方向で準備が進められている。研究所には「田中・山崎・飯田・菊池・道家文庫」という別称もあり、田中実、山崎俊雄、飯田賢一、菊池俊彦、道家達将という科学史・技術史の研究者の蔵書を有する研究機関である。設立にあたっては、法人の社員を募ることや不動産の確保、資料や資材の搬入、設備を整えるための大工仕事にいたるまで、この研究所の理事長である東工大の木本忠昭名誉教授によるたいへんなはたらきがあったことは記しておかなければならない。

蔵書を通じてできることのひとつは、歴史家の仕事を研究することである。まずは目録を作成しなければならない。そのためにGBibWebは役立つはずなのであるが、開発が滞ったままである。そうこうしているうちに、PHPのバージョンは4から5になってしまった。これは多様な利用形態に応じてモジュールを組み合わせて使う、汎用の書誌情報データベースであり、このような研究所での利用にも適しているものを目指している。

私は理事ではないが、実務的な作業をする事務局を引き受けた。地道にやっていきたいと思う。

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