Archive for the ‘技術論’ Category

プロの論文を読む:ソフトウェア工学編に続いて社会科学の分野から,チャレンジャー号とコロンビア号の二度にわたるスペースシャトル事故を例として,組織と経営責任に関する検討がなされた論文を読んでみる.

桑田耕太郎, 組織理論と経営者の責任:スペースシャトル事故の分析を通じて, 成城大学経済研究, No. 179, pp. 47-72, (2008)

論文は掲載誌タイトルのリンク先である成城大学経済学部のサイトから全文を PDF で入手できる.総ページ数は26とやや長いが,アメリカ政府による調査報告書や関連資料を使って,事故の詳細な分析がなされており,専門家でなくとも読みやすい内容となっている.内容は次のとおりである.

(序論)
1. チャレンジャー号の爆発事故
NASAの安全管理組織
2. コロンビア号の爆発事故
3. なぜ大事故が起きるまで,組織は学習しないのか?
3-1. 「安全」に関する認識の差異
3-2. 「安全空間」の概念
3-3. 組織学習の効果
4. 組織理論と経営者の責任
[註]
参考文献

要約する.

まず,序論で現代社会における組織の経営者の果たすべき役割・責任が重くなっていることを指摘し,事故調査委員会の報告書などをもとに,事故と組織的要因の関係,経営者の責任について考察するという課題設定をおこなっている.

本論第1節では,1986年にチャレンジャー号打ち上げ直後の爆発事故について述べられている.スペースシャトルの部品を製造しているメーカーの技術者は,低い気温のもとでの打ち上げ中止を勧告していたにもかかわらず,NASAが打ち上げを決行した結果,チャレンジャー号は爆発して乗組員7名は全員死亡した.打ち上げを延期させることができなかったのはNASAの組織構造にあると指摘されている.部品メーカーの経営者は技術者の意見に敏感ではあったが,最終的には大きな取引先であるNASAの意向に沿う行動をとった.

本論第2節では,2003年にコロンビア号が大気圏再突入の際に空中分解した事故について述べられている.これも乗組員7名全員死亡という惨事であった.事故の直接的原因は左翼の断熱材が破損して大気との摩擦熱で翼が高温となり破壊されたこと,そしてNASAは打ち上げ直後に断熱材破損を知っていながら対応策を講じなかったことがあげられている.このような断熱材破損は本来あってはならないことだが,実はそれまでにも断熱材破損を起こしたスペースシャトルが帰還しているということから,安全性に対するルール違反が常態化していたという.

本論第3節では,コロンビア号の事故調査報告書がNASAの組織文化にあることを紹介し,「安全」に関する認識が技術者と経営陣の間で異なっていたこと,経営陣からの無理な要求に技術者がなんとか応じて成果を出してきたことなどが指摘されている.

本論第4節は結論ともいえる.このような経営者と技術者の認識構造に違いが生じることはNASAに限ったことではなく,分業によって成り立っている組織においては必然的な特徴であるとされている.そして,経営者は組織の行動やメカニズムを理解しなければならないとしている.

参考文献のリストは,社会科学でよく用いられる「シカゴ・マニュアル」に従ったもので,著者の姓のアルファベット順(欧米人も姓をはじめに書き,ファーストネームはカンマの後にイニシャルを書く)となっている.本文中ではパーレン(=丸かっこ)の中に著者名と発行年で文献を特定できるようにしている.

さて,実はスペースシャトルの事故に関する論文・著作は非常にたくさんある.そんな中でもこの論文は,事故原因を解明するということを主目的としたものではなく,事故調査委員会などによって明らかにされたことをもとにNASAの組織について論じ,そこから一般的な組織論を展開するというものである.いわば,社会科学の学説を事例によって裏付けようという試みともいえる.

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何度か名前を出した羽仁五郎は、羽仁進『自由学園物語』(講談社, 1984年)に書かれているように、現在は東久留米市にある学園町で戦前からしばらくのあいだ過ごした。羽仁の自宅に集まった研究者の中には、原稿を暖炉で焼いてしまえと言われた者もいれば、ジーメンスの電気ストーブが赤外線を放っているのに、寒くてたまらないと言っていた者もいる。最寄駅は現在のひばりが丘駅(1959年4月30日までは田無町駅)である。

羽仁五郎・羽仁進『父が息子に語る歴史講談』(文芸春秋, 1987年)の中で、羽仁進が羽仁五郎に武谷三男がロシア人女性と一緒にいるのを見たと言い、羽仁五郎が知らないの一言ですませる場面があった。ロシア人女性とは、武谷ピニロピのことであろう。武谷三男は、同じ沿線の石神井公園駅の近くに住んでいた。1953年から1969年まで立教大学教授をつとめたが、所属機関のない時期も長く、論文を投稿する際に、所属機関を「トウキョウ、ネリマ」にしたと自嘲的に語ったこともある。

さて、ある物理学者という人物のブログ広重徹の武谷批判というエントリには、次のように書かれている。

広重徹の「科学と歴史」(みすず書房)の中の「科学史の方法」のところを読んでいる。この中で広重徹は武谷三段階論を科学の研究の歴史に基づいたものではなく自然の論理としても科学の歴史としても間違っているといっている。間違っているという言い方はちょっと言い過ぎかもしれないが、武谷三段階論はどうも歴史に即したものではなく、また三つの段階の間の移行の契機がはっきりしないというようなことらしい。
これはまだ印象の段階なのだが、もっときちんと広重の言っていることをつかむようにしなければならないだろう。昔、広重の武谷批判を読んだときにそれなりに納得した気になったものだったが、だが広重は新しいアイディアを出してはいないと思った。

この件に関しては、次のような文献を読んでおくとよいであろう。

  • 植松英穂, 歴史の小経-一人歩きした武谷三段階論-, 日本物理学会誌, 58, 11, 834-836, 2003.
  • 安孫子誠也, 広重徹による武谷三段階論批判, 物理学史ノート, 11, 109-125, 2008.

たしかに武谷三男は日本科学史学会の会員であったこともあるが、現在の日本科学史学会には武谷三段階論を科学史の方法ととらえている会員はほとんどいないであろう。ついでに、些細な点かもしれないが、ひとつ気になったことがある。

科学史をやっていない普通の物理学者には伏見さんにしても南部さんにしても武谷三段階論を方法論というか世界観としてはそれなりに評価していると思う。それは考え方であって、かならずしも科学史の成果とは捉えていないと思う。

伏見さんというのは伏見康治(故人)のことであろうか。伏見康治は科学史に関心が深く、1995年、日本科学史学会の名誉会員に選出されている。

まとめると、武谷三段階論は、物理学の研究者にとってひとつの指針となるものであったが、すべての物理学者が武谷三段階論に依拠して研究活動をしてきたわけではない。また、武谷三段階論は、科学史の方法論とするような性格のものでもなかったのである。

武谷三男については、技術論論争が知られている。これについてはいずれ述べることにしたい。

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